ダイナマイト・キッドさん一周忌 初代タイガーマスクとプロレスを変えた男を振り返る
WWFで世界的地位を得るが その裏では…
83年8月、タイガーの引退によってキッドは最大のライバルを失った。が、その後は戦場を全日本プロレスやアメリカWWF(現WWE)に拡大。86年4月の「レッスルマニア2」でWWF世界タッグ王座を奪取するなど、いとこのデイビーボーイ・スミスとの「ブリティッシュ・ブルドッグス」で世界的地位も手に入れた。
しかし、身体の小さいキッドは大型選手に対抗するため、そしてプレッシャーの大きさなどからステロイドをはじめとする薬物に手を出すようになる。その副作用が肉体を蝕み、91年12月6日、全日本プロレス武道館大会で電撃引退。しかし93年に母国で復帰し、96年10月10日にはみちのくプロレスの両国国技館大会で試合をおこなった。
だが、このときのキッドはまるで別人のようにやせ細っていた。同年3月の大田区大会にはゲストとしてサプライズ登場、リング上で初代タイガーと久々の再会を実現させていた。この頃、全盛期とはくらべられないとしても、キッドはコンディションを意識的に、かつ確実に上げていた。実はお忍びで大阪に足を伸ばし観光も楽しんでいたのだ。その数カ月前には筆者をパブやジム、友人宅にまで連れて行ってくれた。予想以上に精力的で、将来のプランを話すほど、完全復帰に向けてのモチベーションがアップしまくっていたのだ。
それだけに、空白の半年間でなにがあったのか謎なのだ。実弟のマーク・ビリントンも当時はあまり連絡を取っていなかったため体調の激変に驚くしかなかった。やがてキッドは車イスで生活するようになり、プロレス界と完全決別。デイビーボーイ・スミスJrの訪問を許したのは、プロレス関係者というよりも親戚だったからだろう。
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キッドの最期