想定外の乳がん、支えになった病室仲間とのLINE「パイ友」 夫をがんで亡くし…闘病からの気づき

家族の病歴から、いつか自分がかかるとしたら大腸がんか胃がんではないかと想像していた。しかし、実際に発症したのは乳がん。千葉県在住で介護職に就く60代の女性にとって、闘病に大きな影響を与えたのは14年前に夫を肺がんでみとった経験だった。乳房温存療法の術後、放射線治療を行い、現在は職場に復帰して治療を続けている。闘病から得た気づきや、今だから語れる率直な思いについて聞いた。

乳房温存療法の手術、放射線治療後、現在はホルモン治療を行う女性【写真:真貝友香】
乳房温存療法の手術、放射線治療後、現在はホルモン治療を行う女性【写真:真貝友香】

夫のみとりが決定付けた乳がんへの向き合い方

 家族の病歴から、いつか自分がかかるとしたら大腸がんか胃がんではないかと想像していた。しかし、実際に発症したのは乳がん。千葉県在住で介護職に就く60代の女性にとって、闘病に大きな影響を与えたのは14年前に夫を肺がんでみとった経験だった。乳房温存療法の術後、放射線治療を行い、現在は職場に復帰して治療を続けている。闘病から得た気づきや、今だから語れる率直な思いについて聞いた。(取材・文=真貝友香)

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 介護施設でフルタイムで働き、長年続けているバレーボールが趣味。穏やかな生活を送っていた。乳がんが発覚したのは2025年9月のこと。乳がん検診は定期的に受けていたが、コロナ禍で間隔が空いてしまい、久しぶりに検診を受けたことがきっかけだ。乳がん検診はマンモグラフィーのみの予約だったが、検査当日にスタッフの勧めで超音波(エコー)検査を追加で実施したところ、右胸に約1センチの腫瘍(しゅよう)が見つかった。

「以前の乳がん検診で左胸について指摘を受けたことがあったので、左胸に腫瘍ができたのだろうと思い込んでいました。父親が大腸がんを患ったことから、自分ががんを発症するとしたら大腸がんか胃がんあたりだろうかとは思っていましたが、乳がん、しかも右胸と分かって、頭が真っ白になりました」

 すぐに検査を行ったが、結果が出るのは1か月後。「せっかちで短気な性分で、待っている時間が苦痛なので、先生に『白黒どっちか教えてほしい』と聞いてしまいました」と笑う。担当医師に「ほぼ黒」と告げられるとすぐに病院を探し始め、正式な結果が出る10月にはがんセンターに通院する意志が固まっていた。

「だけど、いざ予約を取ろうとするとなかなか取れないので、スタッフに思わず『キャンセルが出ることはないんですか?』と聞いてしまったほどです。1か月後の予約が取れたと思ったら、さらに検査や手術の日程が決まるまでにも時間がかかりました。健康じゃないと闘病のスタートラインにも立てないって、皮肉みたいで心が折れそうでしたね(笑)」

 女性は闘病について語る間、常にあっけらかんとして、何度も笑い話を挟んでくれる。しかし、乳がんにかかったことは家族や限られた友人、上司以外にはこれまでほとんど話していない。「10年後まで生きていたら話してもいいかな」と穏やかにほほ笑むその背景には、14年前に夫を肺がんで亡くした経験が関係していた。

「夫が亡くなった後、親しい友人から『大事な人が生き返って1日だけ会いに来てくれるドラマがあったから、旦那さんも同じように帰ってきてくれるといいね』と言われたことがありました。そうは言っても帰ってくるわけはないし、1日でまたいなくなったら余計に苦しいですよね。ただ、相手もよかれと思って言ってくれたことは分かるし、いちいち突っかかってしまっては、この先誰も声をかけてくれなくなるだろうなと。それなら何も言わないのが一番だろうと考えるようになってしまいました。だから乳がんのことは職場にすら極力言わないようにしました。かわいそうと言われることや気を遣われることが想像できて、とても耐えられそうになかったです」

 とはいえ、入院するにあたってはまとまった休みが必要だ。力仕事も伴う職種のため、職場復帰できるか不安を抱えていると、上司は「まずは体を大事にして、先のことは追って考えよう」と安心する言葉をかけてくれた。その年の12月に乳房温存手術を受け、放射線治療を行い、5年続くホルモン治療を受けている。

「この年齢でよかった」

 現在は職場復帰し、日常生活を取り戻しつつあるが、ふと再発の可能性や転移が頭をよぎる時もある。不安に駆られることもあるが、闘病を通じて新たな心の支えができた。同じ病室に入院していた患者仲間とのLINEグループ、その名も「パイ友」。40代、50代、60代2人の計4人は、全員ステージ1の乳がんを経験した、言わば“同志”だ。

「うち1人は『進行が早い』と言われ、病院から治験を勧められて一晩中泣いていました。夜中に看護師さんが背中をさすり続けて、ずっと泣いているのをカーテン越しに聞いていると、どう声をかけていいのか分からなかったですね。連帯感もあったけど、同じ乳がんでも、みんな内容も位置も違うし、何もかもを共有することはできないのだと痛感しました。私が手術のトップバッターで、その後みんな元気に帰ってきた時は『もう大丈夫だよね』と大盛り上がりしましたよ。看護師さんに『はい、もう解散してください』と注意されるくらいだったので、変な言い方になってしまうけど、楽しかったですね。退院したらもう話せる人がいなくなってしまうのが悲しくて。放射線治療の時間が近い人がいたら、おしゃべりするために早めに待合室に行くこともありました。みんな明るくて本当に救われました。1人でいたらもっと暗い気分で落ち込んだでしょうね」

 女性は夫の闘病に関しては何もかも1人で抱え込んでしまったが、自らの闘病を通して、「あの時、もう少し子どもたちに頼るべきだったかもしれない」と省みている。息子は当時21歳になったばかりで、若くして父親を失うことを不憫(ふびん)に思うあまり、自分の気持ちを後回しにしてしまったのだ。「今思えば、どうして子どもたちに甘えなかったのだろうという思いもあります。でもその時はそうすることしかできませんでした」と涙ぐみながらも、今は子どもたちがさりげなくサポートしてくれることに感謝を伝えている。

「退院する時も、息子が車で迎えに来てくれて、近道を探してくれたのですが、急カーブのたびに衝撃で傷口が痛くて。でも私が疲れないように早く家に連れて帰ろうとしてくれているのだろうとかわいく思えました。その翌日も、妹が食事に連れ出してくれて、車に乗っている間は胸が揺れないように両手で押さえていました。痛いけどうれしい、そんな不思議な気持ちを何度も味わいました」

 時間やお金に対する価値観にも変化が生じた。少し貯めておこうかと考えていた年金もすでに受給を開始している。

「9月で乳がんが発覚して1年になります。夫の肺がんが分かったのも9月で翌年5月に亡くなったので、今年の5月には『夫にはこれだけの時間しかなかったのか』と時間の短さを実感しました。だから何かしなくちゃいけないけど、どうしたらいいか分からなくて焦る時期もありましたね。今は残された時間を最大限に楽しみたくて、積極的に出かけています。昔は出かける時は常に夫か子どもか友人と一緒でしたが、今は1人でドライブする楽しみを覚えて、1人でも遠出しています。乳がんになったのもこの年齢でよかったと思います。5年後だったら自分で運転できるかも分からないし、乳がんだけじゃなくて関節が痛いとか認知症とか、他にも不安があるかもしれないですから」

 ホルモン治療の薬を飲み忘れないようにする、薬を切らさないように通院の日を調整するなど、日常生活で神経を使うこともたびたびある。闘病がしんどくないかというと、うそになる。しかし、そのしんどさに対処できるのも自分なのだという。

「あきらめるのも自分だけど、進むのも自分です。夫の闘病時のように他人の痛みを肩代わりできないほうがずっとつらくて、自分で引き受けるほうが楽ですね。よく『過去は変えられない』と言うけれど、今がよかったら悪い過去の思い出もいい方に変えられるのかもしれません。そう考えると、振り返ったり立ち止まったりするのも悪くない時間でした」

 11月には再度マンモグラフィーの検査を受ける予定だ。「まだ胸が痛いから勘弁してほしいですけど」と笑いながらも、今を大事に生きようという思いが伝わってきた。

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