射駒タケシが21歳で決断した“無計画上京” パチスロ漬けの日々に「俺、なにしてんのかな?」

攻略雑誌『パチスロ必勝本』(辰巳出版)の創刊当初から携わり、パチスロ漫画の原作も担当。面倒見もよく、同雑誌の後輩たちからは兄貴的存在として慕われている人物がいる。30年ほどのキャリアを誇る、パチスロライター・射駒タケシだ。関西で生まれ育った“やんちゃ”な少年が、どのような経緯で上京し、パチスロライターという仕事に就いたのか。詳しく語ってもらった。

射駒タケシは大久保で「イタリアン酒場とみゑ」を営業している【写真:ENCOUNT編集部】
射駒タケシは大久保で「イタリアン酒場とみゑ」を営業している【写真:ENCOUNT編集部】

『パチスロ必勝本』で兄貴的存在として慕われている

 攻略雑誌『パチスロ必勝本』(辰巳出版)の創刊当初から携わり、パチスロ漫画の原作も担当。面倒見もよく、同雑誌の後輩たちからは兄貴的存在として慕われている人物がいる。30年ほどのキャリアを誇る、パチスロライター・射駒タケシだ。関西で生まれ育った“やんちゃ”な少年が、どのような経緯で上京し、パチスロライターという仕事に就いたのか。詳しく語ってもらった。(取材・文=濱マモル)

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「小学生の時は少林寺拳法と少年野球をしてた。遊びみたいなもんやけど」

 射駒は1973年1月21日、父の出稼ぎ先だった和歌山県で生まれ、半年後、大阪府に戻った。小学校5年生で隣町に移住。地元の中学校に通った。

「1個上の誰かが『ギターあげるわ』ってもらって。ギターやってた。中2くらいかな、THE BLUE HEARTSのタブ譜をもらって。それをずっと弾いてた。中学の時、ホンマ何もしてない。マジで何もしてない。中学も行ったり行かなかったり。手ぶらで行ったりしてた。全然、勉強もしてなかった」

 実家は、決して裕福ではなかった。高校に進学する気もなく、中学生活に意味を見いだせずにいた。

「中3くらいの時に、うちら5~6人の仲いいグループがあんねんけど、進路指導の人に『お前らは絶対、どこか行け』って言われて。『専門学校でも職業訓練所でも絶対、行け』って。『定員割れしてる府立の工業高校があるから。名前書いたら受かるから、そこ行け』って。で、俺ら3~4人は、そこに行かされたのよ」

 進路指導の先生に薦められた学校へは片道1時間強。徐々に行かなくなった。

「パチンコ・パチスロ自体は正直な話、小っちゃい頃からおとんに連れて行かれた。だから免疫力があったから、数千円持って打ちに行ってた。それが『ファイヤーバード7U』」

 今は禁止されているが、当時は親に連れられてパチンコ店にいる子どもも珍しくなかった。パチンコの羽根モノは、子どもの頃から触れていたという。

「パチスロってすごいかっこいいな、打ってみたいなと思ってた。それでパチスロを打って……みたいな感じかな。それでハマった。『あぁ、おもしろいな』って。いろんな街のモーニングを取りに行ってた。『ファイヤーバード7U』はきっかけの1つにしか過ぎなくて、パチスロが面白いなって思ったのは『パルサーXX』」

『パルサーXX』は山佐が製作し、日活工業が販売を担当した1号機。最大の特徴はテーブル方式が生み出す多彩なリーチ目で、ボーナス絵柄の組み合わせ型やチェリー付きなど、独創的な出目で多くのファンを魅了した。

「リーチ目とか出目を覚えると、次ゲームで7をそろえられる。仕組みを分かってきて。だから『あ、左リールのここにこれが止まったらチャンスなんやな』とかを考えながら打って、すごいハマっていった。あとはパチンコも打ってた、ずっと。『ザ・トキオ』のタワー止めとか、攻略ネタがあったら、それをやったりして。そんなことばっかりしてたな」

 そんな中、1つのマシンに衝撃を受ける。

「びっくりしたのが、『センチュリー21』を見た時。『なにこれ!? 7がでっかいな』って思って。7がテンパイしたらドラムロール(テンパイ音演出)が鳴るやんか。『ドラムロールが鳴るパチスロって初めてやな』って思って。そこから、2号機はめちゃくちゃ打ったね。打ってない2号機はないかもしれない。たぶん、全部打ったと思う」

アテもなく上京を決断も…「結局パチスロしか打ってなかった」

 2号機時代は、パチスロにドハマリ。だが、以降はしばらくパチンコを打つ機会の方が多かったそうだ。

「権利物が出始めたりしてたから。『アレジン』を朝イチから打ったり。『ダイナマイト』とかね。パチスロはあんまり打ってないもん、当時。気づいたら、パチスロは4号機になってて。どこに行っても『ニューパルサー』があった。それで4号機っていうのを初めて知った。リプレイが搭載されていたりして。『リプレイってなに? そろって1G回せてなんなん?』みたいな。マジで意味が分からんかった」

 1号機以来の大規模な規則改定により、4号機はリプレイの採用、ビッグの「期待値方式」の義務化など、それ以前のマシンとさまざまな部分が変化した。各メーカー、2号機は“2機種まで”、3号機は“3機種まで”といった台数制限も撤廃された。

「パチンコの方が勝てたし、当時は。で、気づいたら本当にずっとパチンコ・パチスロしかしてなくて。まぁバンドもちょこちょこしてたけど。打ちに行って、みんなでメシ食って。毎日365日、それをしてて。21歳くらいの時に『俺、なにしてんのかな?』『時間、もったいないな』って思ったのね」

 パチンコ・パチスロの収支はプラス。金銭的に困ることはなかったものの、今の生活が「面白くなくなった」そうだ。これを機に1994年、上京を決意。飲みの席で突然、「俺、今週くらいで東京行くわ」と宣言したという。

「みんな『えっ!?』ってなった。別に住むところがなくても、とりあえず行ってみようと思って。行かないと何も変わらへんし」

 少しの期間、先輩の実家が営むトラック運送会社を手伝っていたこともあり、そのトラックに乗せてもらって深夜に移動。早朝、渋谷に到着した。

「当時、センター街のマクドナルドが24時間(営業)で。そこで時間つぶして。10時前に、まだ1軒しかなかったエスパスに『ここ、一番人が並んでるなぁ』と思って並んで。パチスロ打って。で、サウナとか、安いビジネスホテルに泊まったりしてたね」

 そんな生活を10日くらい続けていると、偶然、地元の先輩と再会する。

「環境を変えたくて出てきたけど、結局、パチスロしか打ってなかった。『何してんねやろな』って思いながら。で、その人に出会って、『どこ住んでんの?』って言われて、『いや、住んでない』って。『俺、三茶(三軒茶屋)に住んでるから。よかったら、別に寝るだけやったらいいよ』って言われて。そこに1か月くらい住ませてもらった」

一時は芸能事務所にも所属、ホールで誘われパチスロライターに

 地元の先輩は芸能事務所に所属する芸人だった。芸人だけでは食べて行けず、銀座のイタリア料理店でアルバイトしていたそうで、「タケシって料理できる?」と誘われたという。

「おばあちゃんが料理屋さんをしてて。手伝ってたの、中学生くらいの時から。『料理というか、まぁ包丁とかは使えるよ』って言ったら、『人がいないから手伝ってくれへん?』って言われて。『まぁ毎日パチスロ打ってるだけやし、いいか』って思って。そしたら俺がイタ飯にハマった。で、そこで仲良くなったやつが芸能事務所に入ってて。『やることないんやったら事務所に入れば?』って言われて。いや、『入れば?』って言われても、別に俳優とかミュージシャンになりたいわけじゃないし。有名になりたいっていうのもなかったし」

 当初、その誘いは断ったそうだが、「1回遊びに来れば?」と勧められて顔を出すと、その友人が社長に「入りたいって言ってる」と勝手に説明。射駒は「えっ!? 言ってないけどな……」と戸惑ったものの、そのまま入所が決まった。ただ、週2~3回のレッスンやオーディションには「全然、行かなかった」そうだ。基本的には、イタリア料理店で働く日々。そんな折、技術介入機として絶大な人気を誇った4号機『クランキーコンドル』が登場する。

「(お店に)人も増えてきたし、『まぁ行かなくてもいいかな』って。ほぼ毎日、コンドル打ってる方がお金になる。それが95年かな。で、97年くらいだったかな。『パチンコ必勝本』はあったんだけど、『パチスロの漫画雑誌とか、増刊の攻略誌を出したい』みたいなことを思ってたらしくて。俺がよく行ってたホールの常連が編集部の誰かと知り合いで。ライターがいないから、『毎日来てて、勝ってるやつがいるよ』みたいに伝えて。それで『手伝いませんか?』みたいな感じで言われた。俺、全然したくなかったの。『ライターってなんなん?』って。雑誌、買ったことなかったから。『パチスロ雑誌? うさんくさいなぁ。そんなんで勝てるんやったら、みんな勝てるやろう』って思ってた」

 言われるがままに編集部で面接し、そのまま採用。当初は主に出目のチェックを任された。

「めっちゃ間違えてるし、当時なんて。『これ、リーチ目じゃないですよ』なんていうのを、ずっとやってた。それでお金もらって。『結構、いいお金になるな』と思って。『これやったら片手間でできるし、いいや』と思ってたら、『パチスロ漫画をやらないですか?』って言われて。『えっ!? 俺が出るんですか? 誰が読むんですか? そんなの。名もなき主人公の漫画なんて』って言ったんだけど、編集長に『やりませんか?』って言われて。『じゃあ、やりましょうか』みたいな。それも、やりたくなかったんだけど、俺が脚本を書いて渡した。そこから始まった」

 脚本の主人公、その名前には「タケシ」としか書いていなかった。だが、上がってきた仮原稿をチェックすると、「射駒タケシ」と変更されていた。

「聞いたら、漫画家さんは苗字がないのがしっくりこなかった。『とりあえずいいなと思った、この名前にしたんですけど』って言われて。『全然、いいですよ。ありがとうございます』って。俺も、どうせ漫画自体すぐなくなるだろうし、『なんでもいいや』って思ってたから。そしたら、信じられへんくらい続いて。20年くらい続いたかな。だから、それで射駒タケシ。漫画家さんがつけてくれたというか、つけたというか……」

 ガツガツしない性格だからこそ、たどり着いたパチスロライターという職業。大阪で“イコマ”といえば生駒山を連想するが、漫画家が“生”ではなく“射”という漢字を選んだのは、「的を射る」という意味と、「昔、福岡ダイエーホークスに永射保という選手がいて、その名前がずっと頭に残ってた」との理由があるだそうだ。

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