【オヤジの仕事】布川敏和が語る、両親が合宿所に運んでくれた「シブがき隊」の3組の布団の思い出

父親と初々しいふっくんのツーショット【写真提供:布川敏和さん】
父親と初々しいふっくんのツーショット【写真提供:布川敏和さん】

子どもたちと一緒になって真剣に遊んだ

 オヤジがよく僕と遊んでくれたから、僕も子どもとよく遊びました。隼汰が生まれる1年ぐらい前にゴルフを始めてハマッていたんですけど、子どもが生まれたらやめてしまいました。休みの日は家にいて、子どもと一緒にいたくて。

 子どもって、こっちが「遊んであげてる」って気持ちで接すると伝わるんですよね。だから、一緒に真剣に遊んでいました。サッカーしたり、キャッチボールやったり、虫取りして標本作ったり。楽しかったなぁ。たくさん遊んだけど、もっと遊んでおけば良かったって後悔しています。小学校高学年にもなると、もう遊んでくれなくなるから。

 オヤジが何でも買ってくれたので、僕も子どもたちには甘くて、「ほしい」って言われると何でも買ってあげちゃっていました。つちやさんのほうが厳しくて、家族で買い物に行っても「買うのは、1人1個までね」なんて言って。だから、バランスがとれて良かったんでしょうね。

ジャニーズ事務所の合宿所に3組の布団を運んでくれた

 僕は中学3年でジャニーズ事務所に入りました。「入りたい」っていう友だちに付いていったのがきっかけ。ジャニー(喜多川)さんに「Youも踊ってっちゃいなよ」って言われて踊ったら「合格!」って。両親は反対も賛成も、何も言わなかった。まさか続くと思わなかったんじゃないですか。

 僕自身も芸能人になるとは思っていなくて、オヤジの会社を継ぐつもりで工業高校に進学しました。ところが、高校に入ったらすぐに「2年B組仙八先生」でデビューして忙しくなって転校。2年生になったら、「シブがき隊」の3人で事務所の合宿所で生活することに。両親はやはり何も言わず、同じ布団を3組用意して、車で合宿所まで運んでくれました。だから、やっくんともっくんも、その布団で一緒に寝起きしていたんですよ。

 合宿所に入ってからは忙しく、あまり実家には帰れなくなってしまいました。きっと、僕がテレビに出てるのを、喜んで見ていたんじゃないかなぁ。オヤジも目立つのが好きだったから(笑)。実家にファンの子が訪ねてくると、歓迎していたみたい。僕がたまに実家に帰ると、サイン色紙がドンと置かれていました。僕が愛犬をデザインしたTシャツとか缶ペンとか作って家の駐車場で販売していたから、その子たちにプレゼントしていたんでしょうね。

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