一歩間違えば「殺人現場」 船木誠勝夫妻が今、振り返る26年前の“伝説”ヒクソン戦「最悪は私が止めに行こうと…」
今から四半世紀以上前、未だに語り継がれる衝撃的な一騎打ちが行われた。船木誠勝VSヒクソン・グレイシー戦(2000年5月26日、東京ドーム)である。結果的に敗れた船木は引退を表明。リングを去ったが、2007年大みそかに復帰を果たして以降、現在もプロレスラーとして活躍している。今回は、ヒクソン戦という格闘技界の歴史に残る一戦を体験した船木夫妻が、改めてあの一戦を振り返る。

試合中、視力を失ったヒクソン
今から四半世紀以上前、未だに語り継がれる衝撃的な一騎打ちが行われた。船木誠勝VSヒクソン・グレイシー戦(2000年5月26日、東京ドーム)である。結果的に敗れた船木は引退を表明。リングを去ったが、2007年大みそかに復帰を果たして以降、現在もプロレスラーとして活躍している。今回は、ヒクソン戦という格闘技界の歴史に残る一戦を体験した船木夫妻が、改めてあの一戦を振り返る。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
「やっている最中はイケると思いましたよね。あれ、今日もしかしたらイケるんじゃねえか。それぐらい、ヒクソンも必死だったんですよね。(ヒクソンが)下になったじゃないですか。その時に、絶対に自分のペースだと思ったんですよね」
船木は“伝説”の一戦をそう振り返った。船木が話す通り、試合の途中でヒクソンが船木の下になる場面があった。そこから、立ち上がった船木が寝た状態のヒクソンを攻撃する、いわゆる猪木VSアリ状態(※)になる。
「猪木VSアリ状態の場面は想定していなかったんですよ。逆にどうやってやるんだろうって、これでいいのかなって思いながら蹴っていたんですよ。そういう練習はしていないので。しかも蹴っているうちにだんだん疲れてくるんですよね。でも、あの時にヒクソンは目が見えていなかったらしいです」
2022年3月に日本で出版されたヒクソンの自伝「BREATHE」(亜紀書房)によれば以下のような記述がある。
「開始九分、船木が私の首をとらえ、ギロチンチョークを仕掛けて来た。そこで船木をグラウンドへ引き込んだとき、彼のパンチが私の目を直撃した。キャンバスに仰向けになったまま、目が両方とも見えなくなっていた」(原文ママ)
どうやらヒクソンは眼窩底骨折をしていたらしい。船木はこの場面を振り返り、「見えていないと知っていたら、もっと行けましたね」と話した。
「でも、あきらかに(ヒクソンが)こっちのほうを見ているんですよ。見ているから、見えていると思うじゃないですか。だから、できるだけ(ヒクソンの懐に)入らないように。入ったら捕まえられちゃうから、と思いながらやっていましたね。だからこの先はどうなるんだろう…立ったら殴ろう。それしか考えられていなかったです」
結局、寝たままの状態のヒクソンに対し、船木は30発以上の蹴りを放ったが、ヒクソンを仕留めるには至らず、逆に「私の蹴りが船木の膝をとらえたおかげで距離ができ、完全に立ち上がることができた」(ヒクソンの自伝「BREATHE」より)。
つまり船木は最大の勝機を逃してしまったのだ。船木はこの場面を振り返り、「今考えたら……」と話すと、次のように続けた。

タップをしない船木と、タオルを投げないセコンド
「(ヒクソンが)立って来たら蹴りに行ったほうがよかったですね。蹴りをやりながら離れて、蹴りをやりながら離れて……ってやっていたほうがよかったですね」(船木)
そして、試合はヒクソンのチョークスリーパーで船木が絞め落とされるフィニッシュの場面に移行する。しかしこの時、船木はタップせず、セコンドも敗北を認めるタオルを投げることをしなかった。
「私はタオルを投げないことも知っていたので。でも、まさか周りが誰も止めないとは分からなかったですけど、さすがに」
船木の妻・いづみさんはそう話した。
26年前を振り返ると、たしかに船木が悲壮な決意と覚悟でヒクソン戦に挑んでいたことは関係者や取材陣には伝わっていた。そのため、もしそんな場面になったら、自ら負けを認めるようなスポーツライクな面持ちでリングに向かっていないだろうとは思っていた。
だからこそ、そうはならないでほしい。取材陣の一人としてはそんな心境でリングを凝視していた記憶はあるが、結果的にはその場面がリング上で展開されてしまった。
「私、いただいていた席が12列目と13列目を親族席でいただいていたんですけど、(リングからの距離が)遠かったんですよね。だけど最悪は私が(試合を止めに)行こうと思っていたんですけど、あまりにも遠くて行けないじゃないですか。もうなんなんだと思いましたけど…」(いづみさん)
身内の立場ならそう思っても不思議はない。それでも当時の船木が決めていた「タオルは投げないでほしい」という意思をセコンドも同意しての判断だった。いや、セコンドからすれば、船木ならどんな状況になっても跳ね返すに違いない、と考えていた可能性すらある。
改めて船木がその場面を振り返る。
「(一歩間違ったら)殺人現場ですよ、首を絞めて落ちるみたいな」「今はたまにありますけど、当時はああいう場面(絞め落とされて失神)はないですから」
今思うと、東京ドームのど真ん中で首を絞められて失神したのは、船木以外に誰がいたのか。もしかしたらあれはドーム史上、唯一無二の場面だったのかもしれない。
ちなみにヒクソンは船木を絞め落とした直後、カラダを離す際に船木の背中を蹴った。その場面を「グレイシーハンター」と呼ばれていた桜庭和志が「あの引き離し方は許せない」と憤慨していたことがある。
これに関して、いづみさんは興味深い見解を示した。
「私もそう思っていたんですけど、結局、(船木は)タップもしないし、(セコンドは)誰も止めに来ないし、ホントに自分(ヒクソン)を殺人者にするのかっていうことで、『お前、タップしろよ!』みたいな感じで蹴ったんじゃないのかな。彼はサムライだってヒクソンも言っていてくれたから」

船木「人生がこんなに長いとは…」
もしヒクソンの思いがそうだったとしたら、ヒクソンの行為はそれだけ必死で闘っていたという証明になる。
「だから二つに一つなんですよね。ホントバクチですよ」(船木)
船木はヒクソンに敗れた結果、そのまま「引退」を宣言し、リングを離れてしまう。あのまま現役を続ける選択肢はなかったのか。
「15歳で(新日本プロレスに)入って、もう入った時に『30歳で辞める』って決めているんですよ。そんな俺だったら辞めるもんだと思って、(頭に)入っているんですよね」「あっというまに30歳になっちゃった。どっかで線を引かなきゃっていうのもありました」
結果的にそれから約7年半後、2007年の大みそかに大阪ドームで行われた、桜庭和志戦で復帰を果たすものの、ヒクソンに敗れた段階でリングを離れざるを得なかったのは、今にして思えばどんな心境だったのか。
「そういう、負けたらこう(次の相手と闘う)っていう発想がまったくなかったんですよね。天邪鬼的な。復帰なんかないみたいな。人生を狭く……、人生がこんなに長いと思わなかったんです……今から考えれば」
船木はそう言ってニコリと笑った。
実は昭和の時代、プロレスラーは男女合わせても200人はいなかったものが、令和の今、その数は1000人を越えるという。そのなかには代表的な試合や対戦相手に恵まれないまま、リングに立ち続けている者もいるに違いないし、志半ばでリングを降りた者もいるだろう。
そう考えれば、代表的な試合がいくつもあり、雌雄を決した対戦相手が何人もいる船木は本当に恵まれたプロレスラー人生を謳歌してきたことになる。なぜなら間違いなく船木にとってヒクソンとの一戦はそれに当たるからだ。
もちろん身内からすれば、その分の心労は想像を絶するものがあるのかもしれないが、それでもあえて言えば、勝った負けたは最も重要ながら、それ以上に大事なのは、いかに語り継がれる作品を残せるか。そっちのほうが遥かに重要度は高い、とヒクソン戦を取材した一人としては考える。
なお、船木誠勝&いづみ夫妻が息子であるライアンとともに運営するYouTubeチャンネルに「サムライファミリーch」がある。説明欄には「色々な事にチャレンジしたり、お話ししたり不思議な体験など、プロレス・格闘技に限らない動画です。『人生一度きり』辛い事や苦しい事も角度を変えたら人生楽しくなれるなるかも知れません! 見て下さった方々のちょっとした生きるヒントや楽しみになったら幸いです!!」と書かれている。
2024年3月に開設された同chは、現在、約7000人のチャンネル登録者数ながら、すでに200本の動画を公開。説明欄にある通り、さまざまな動画を配信している。
(一部敬称略)
※「猪木VSアリ状態」とは、1976年6月に、船木の師匠に当たるアントニオ猪木がプロボクシング世界ヘビー級王者のモハメド・アリと「格闘技世界一決定戦」を闘った際、アリのパンチを警戒した猪木が寝た状態のまま、立ったままのアリと闘ったことに由来する。
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