いまだ謎多き“1・4事変”とは何だったのか 佐山サトルと小川直也が四半世紀ぶりに再会「よくしようっていうのが大前提」
“初代タイガーマスク”佐山サトルと“暴走王”小川直也が、四半世紀ぶりの“再会”を果たした。2人の対談が、YouTubeチャンネル「初代タイガーマスク 佐山サトル【公式YouTube ch】」と「小川直也の暴走王チャンネル」の合同企画として実現。4日、双方のチャンネルにて公開された。
「初代虎に否定はない」(小川)
“初代タイガーマスク”佐山サトルと“暴走王”小川直也が、四半世紀ぶりの“再会”を果たした。2人の対談が、YouTubeチャンネル「初代タイガーマスク 佐山サトル【公式YouTube ch】」と「小川直也の暴走王チャンネル」の合同企画として実現。4日、双方のチャンネルにて公開された。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
2人が対談場所に選んだのは、師匠である“燃える闘魂”故アントニオ猪木のマネジメント事務所「猪木元気工場(IGF)」(東京・銀座)だったが、やはり最も注目されるのは、やはり「1・4事変」(1999年1月4日、東京ドーム)だろう。
この部分に関しては佐山、小川双方のチャンネルで公開されているが、口火を切ったのは佐山だった。
「試合もいろいろあって、まだ(小川がプロに)入ったばっかりだからノウハウも分からないから。阿吽の呼吸というより阿吽の決めごとみたいなのが分からなくて。どうするかってことで、その対策を取って。1・4(事変)みたいな試合になって。その前から……悩んだね」
ちなみに「1・4事変」とは、当時、UFO(世界格闘技連盟)のエースだった小川と、新日本プロレスの橋本真也による一騎打ちでのこと。試合中、小川は橋本を戦闘不能状態に追い込んだ(※公式記録は無効試合)が、それはプロレス界に存在する“暗黙の了解”を破って、小川が橋本に仕掛けたとされており、試合後のリング上では両軍が入り乱れての大乱闘が繰り広げられた。
この一戦は、今から70年前に起こった、力道山 VS 木村政彦(1954年12月22日、蔵前国技館)と並び、長らくプロレス界で真相を追い求める声が未だに止まない“謎”とされてきた。
佐山の言葉に呼応するように小川が話を続ける。
「でも、必ず佐山さんは否定はないんですよ。『いいと思う』って必ず……。ダメな時はダメって言いますけど、『いいと思う』って。みんなこれはダメだダメだって流れでも、佐山さんだけは『いいんだよ、オーちゃん』って。ホントにそういう意味では励まされました」
佐山「猪木さんがオーちゃんに求めることは、やっぱり大きいから、猪木さんのことを応えてあげたいと思った。それをオーちゃんも応えるし、1・4も立派だったよ」
小川「あの時は一番シビれて。あの時はそういうシチュエーションも、雰囲気作りも、指揮官は佐山さんがいたので、そういう意味ではホント心置きなくやれたっていうんですか。一人じゃできないですよね」
佐山「あれやったのは大したもんだよ」
小川「そういう意味ではホントに『俺、ついてるからな』って。
佐山「やるのが大したもんだよ。あの後、(新日本の現場責任者だった)長州(力)さんと控室の隣でハチ合わせしたの。そしたら長州さん、俺の顔を見た瞬間に大回りして(避けた)。あれ、俺、なんかやったかな?って思って」
小川「みんなね、俺に来る前に佐山さんが(手を広げて小川に触れさせないように)ワンクッション入れてくれた。そういう意味ではホントにいい兄貴だった。やっぱり守ってくれる。『オーちゃん、やって来いよ』って指揮官がやって来いよって。そういうのを全部守ってくれる。ホントそういう意味ではお世話になったんですよ」
「(アントニオ猪木は)プロレスを大きくしたい。もっと威厳のあるものにしたい」(佐山)
当時の佐山は、あの騒動を「あれはね、強い者イジメ」と評していたことがある。
佐山「それは(小川に)ピッタリ(な言葉)だね。でもああいうシチュエーションを作る猪木さんはすごいよね」
すでに騒動から四半世紀を過ぎているが、今やあの騒動は、プロレス界には欠かせない“伝説”になった。
佐山「あれがあるからオーちゃんがあるみたいなもんでね」
小川「そういう意味では猪木さんもそうだし、佐山さんもそうだし、やっぱ新日本プロレスをよくしようっていうのが大前提だったですよね」
佐山「大前提。何が悪いかっていうのを叩き込まれているから。猪木さんもそういうことを喋るし、俺も(その言葉を小川に)通訳して喋るし」
小川「だから新日本プロレスをぶっ潰すんじゃなくて、よくしようっていうためにやっていたんですよね。
佐山「そう」
小川「よく新日本プロレスを壊すのかって言われたけど、そうじゃないんですよね」
佐山「そうじゃない。その前の年か。東京ドームでやった時、猪木さんが控室のテレビを見て、モニターを見ていて、『佐山、見てくれよ。今の試合はこうだよ』って文句タラタラ言ってて。『俺はもう見ないよ』って背を向けて。何がそんなに違うのかなと思って見てみたら、俺たちの時代と全然違うし。それを復活させるって、猪木さんには気持ちがあるんだよね」
小川「(猪木は)『闘いがない』っていつも言ってましたよね」
佐山「そうだね」
小川「当然その時代っていうのは佐山さんたちが築かれた時代だし、あの時代なんでしょうね、最初に」
佐山「プロレスを大きくしたい。もっと威厳のあるものにしたい。それにはオーちゃんがピッタリだったね」
小川「そういう話はよく……。尽きなかったですね、毎回毎回」
佐山「毎回毎回、会議があって、飯食いながらでも必ずそういう話をして」
小川「必ず闘いがテーマだったですね、話し合いの中では」
四半世紀前の話とはいえ、アントニオ猪木の教えは常に、そこに「闘い」があるか否か。時代は変わろうと、そこだけは譲れないのが“燃える闘魂”の残したかった、最大にして唯一の思いだったに違いない。
(一部敬称略)