【INOKI BOM-BA-YE×巌流島】闘技場はどうなる? A猪木の辿ってきた歴史を演出する仕様に

11月に心不全で亡くなったアントニオ猪木さんの“遺言”として開催される追悼イベント「INOKI BOM-BA-YE×巌流島 in 両国」(12月28日、両国国技館)。総監督に小川直也氏の就任が決定し、「令和猪木軍」にPRIDEヘビー級四天王だったジョシュ・バーネットと3年連続全日本ブラジリアン柔術日本一の実績を持つイゴール・タナベの参戦が確定的になったとの情報が公開されたが、さらなる新情報が飛び込んできた。

ロープを外した円形の闘技場で行われたA猪木VSS・チョチョシビリ戦(1989年4月24日、東京ドーム)
ロープを外した円形の闘技場で行われたA猪木VSS・チョチョシビリ戦(1989年4月24日、東京ドーム)

「人は歩みを止め、挑戦をあきらめた時に年老いていくもの」

 11月に心不全で亡くなったアントニオ猪木さんの“遺言”として開催される追悼イベント「INOKI BOM-BA-YE×巌流島 in 両国」(12月28日、両国国技館)。総監督に小川直也氏の就任が決定し、「令和猪木軍」にPRIDEヘビー級四天王だったジョシュ・バーネットと3年連続全日本ブラジリアン柔術日本一の実績を持つイゴール・タナベの参戦が確定的になったとの情報が公開されたが、さらなる新情報が飛び込んできた。

 それは闘うための舞台、闘技場に関するものだ。

 プロのファイターが闘う舞台といえば、真っ先に連想するのがロープが張られたリング。プロレスやボクシング、キックボクシングでは3本や4本などのパターンが存在するが、1993年11月にUFCがオクタゴン(八角形)の金網リングを使用するようになって以降、金網のなかで闘うパターンが急増しはじめた。

 そして今や令和の時代、とくにMMAに関しては、リングよりも金網のなかで闘うほうが世界的には主流になっている。

 そんな流れに逆行するように、14年に始まった「巌流島」では、そういった装飾を一切排除し、純粋に四方をなにも囲まない舞台での闘いを実現した。しかも舞台の周囲をスモークで囲う通称“雲海”にすることで、ルール上、1R・3分のなかで3回、闘技場下の“雲海”に押し出せば勝ちとなるようにした。これにより非日常感が増したと証言する目撃者も少なくない。

 では、年末に開催される「INOKI BOM-BA-YE×巌流島」はどうなるかといえば、これがいいとこ取りの方法を模索している。というのも、今回はこれまでの「巌流島」と違い、「INOKI BOM-BA-YE」と銘打っているだけに、いかに猪木色を打ち出すかが課題となる。

 そこで、各試合ごとにルールを設定し、それに合わせてリングと舞台を使い分ける方式を採用するという。

 例えば、1989年4月に東京ドームと翌5月に大阪城ホールで、アントニオ猪木はショータ・チョチョシビリ(72年ミュンヘン五輪柔道93キロ級金メダリスト)と現役最後の「格闘技世界一決定戦」を行ったが、その際には、その前の試合まで張られていたリングの周囲にあったロープを外し、丸い円形の舞台上で闘った。

 要は、これを令和版に進化させた闘技場を「INOKI BOM-BA-YE×巌流島」では実現していく。いわば猪木チョチョシビリ仕様。

「INOKI BOM-BA-YE×巌流島」は、各ルールによってロープの取り外しが可能な「闘技場」で行われる
「INOKI BOM-BA-YE×巌流島」は、各ルールによってロープの取り外しが可能な「闘技場」で行われる

「INOKI BOM-BA-YE×巌流島」は「実験」の場という考えも

 そうなると、ルールによって闘技場を変えた試合を組むことができる。もちろん今回は採用されないだろうが、同じ対戦カードであっても、第1R目をリング、第2R目を舞台で行えば、まったく闘い方が変わってくる。押し出しがあるのとないのでは、闘い方が変わって当然だ。

 となれば、今でもときおり行われるMIXルール戦(第1R目をキックボクシングルール、第2R目をMMAルールを採用)とは違った、“進化したMIXルール戦”も可能となる。要は、グローバルスタンダードではないカタチの試合形式を模索する実験の場として「巌流島」は生まれた経緯を持つだけに、場合によっては世界基準では埋もれてしまいがちなファイターを輩出できた実績もある。

 実際、「巌流島」で行われた柔道・小見川道大VS沖縄空手・菊野克紀の一戦(18年1月3日、千葉・舞浜アンフィシアター)では、舞台上から、その外に設置された“雲海”に向けて、見事な小見川の巴投げが放たれた。ああいう場面は、ロープが張られたリングや四方を金網で囲まれているなかではお目にかかれない。

 ともあれ、もし試合ごとにルールが変わっていくとなれば、「見る側」にとってはその都度、ルールを確認していく手間が増えるが、それが受け入れられるのかも含め、「INOKI BOM-BA-YE×巌流島」は「実験」の場なのかもしれない。

 考えてみれば、A猪木は常に「挑戦」の連続を生き抜いた人生だった。言い換えるなら「挑戦」とは「実験」を繰り返すこと。

 A猪木の名言のひとつに「安住の地などないものを……」があるが、たしかにそこがゴールだと思った時点で人間の思考は停止する。それはその瞬間から実は後退や崩壊がはじまっているともいえる。

 果たして「INOKI BOM-BA-YE×巌流島」はどれだけの人々に受け入れられるのか、はたまた拒絶されるのか。関係者からすれば、「猪木チョチョシビリ仕様」を打ち出した時点で、A猪木のたどってきた歴史や道程に「見る側」を誘(いざな)いたい意図がうかがえる。

「人は歩みを止め、挑戦をあきらめた時に年老いていくものだと思います」

 A猪木は引退試合(1998年4月4日、東京ドーム)直後のあいさつでそう言った後に「道」の詩を読み始めたが、「INOKI BOM-BA-YE×巌流島」は「行けばわかるさ」とばかりに、明るい未来をともしてくれることを望んでやまない。

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