尾崎亜美、母の死で「曲を作ることができなくなって…」 救われた中学校歌作曲の依頼

「オリビアを聴きながら」や「天使のウィンク」の作者として知られるシンガーソングライターの尾崎亜美は、長らく母親の介護と音楽を両立してきたが、2019年に最愛の母を亡くし、その後、突然曲が書けなくなってしまったという。心に大きな穴があいてしまった彼女を夫でミュージシャンの小原礼が温かく見守り、困難を乗り越えた末にデビュー45年周年記念アルバム「Bon appetit」(ボナペティ)を完成させた。多くの人がいつか経験するさまざまな出来事に直面しながらどう音楽と向き合ったのか? 2人に聞いた。

尾崎亜美さん(左)と小原礼さん【写真:荒川祐史】
尾崎亜美さん(左)と小原礼さん【写真:荒川祐史】

直面した母の介護 家の中は医療道具だらけだった

「オリビアを聴きながら」や「天使のウィンク」の作者として知られるシンガーソングライターの尾崎亜美は、長らく母親の介護と音楽を両立してきたが、2019年に最愛の母を亡くし、その後、突然曲が書けなくなってしまったという。心に大きな穴があいてしまった彼女を夫でミュージシャンの小原礼が温かく見守り、困難を乗り越えた末にデビュー45年周年記念アルバム「Bon appetit」(ボナペティ)を完成させた。多くの人がいつか経験するさまざまな出来事に直面しながらどう音楽と向き合ったのか? 2人に聞いた。(インタビュー・文=福嶋剛)

尾崎「私の母は91歳まで創作袋物作家をしていました。最初は要介護1とか2だったんですが、肺の疾患があったり大腿骨を骨折してしまったりして、どんどん状況が悪くなり要介護3まで進みました。幸い私は介護をしながら仕事ができたので自宅で何年も母を見ていたんです。お仕事が忙しい時は姉に来てもらったり、昔から母と仲の良い事務所のスタッフやお友だち、私は勝手に『目黒お助け隊』と呼んでいましたけど、時には病院に連れていってくれたりいつも優しく助けてもらいました。きっと周りの助けがなかったら介護なんてできなかったですね」

小原「たとえ深夜でも『カタッ』という音が聞こえたら彼女はサッと起き上がってお義母さんの部屋まで飛んで行きましたからね」

尾崎「最後の方は、どんどん悪化して、24時間ずっと酸素をつけっぱなしで生活しなくちゃいけなくなって、次から次へといろんなことも起こるから、お医者様からは『いつ何があってもおかしくない』って言われていたんです。だからちょっとした物音でもすぐに母の寝室まで行ってましたね。実際に行ってみると本当にベッドから落ちていて、すぐに救急車を呼んだんですが、結局それが最後の入院になりました。また骨折していて母もその時は二度とお家には帰ってこれないと思ったかもしれませんね。

 私がずっと母を看ていたから小原さんも大変だったと思います。介護に慣れていない人間がやっていたので、お家の中は医療道具だらけで生活感のある部屋になってしまい、私が介護に時間を取られるから一緒にやりたかった仕事もできなかったり。そんなことがいっぱいあったと思います。

 小さいころから体が弱くて兄弟の中では私が一番母に迷惑をかけて生きてきたので、介護をしているときも母は作家活動を続けていたから、私も絶対に成功させてあげたくて母の活動をずっと応援していたんです。母も私の曲をいつも喜んで聞いてくれて体調が悪い時でも携帯用の酸素をつけてコンサートに来てくれたり。そういうのがこの先も続くのかな、いやずっと続いてほしいって思っていたんですが92歳で亡くなりました。

 でもね、振り返ると私は介護ができたことをうれしく思っているんです。幸せな時間だったなって。一番大切な母親から人間の生と死を学ぶことができたんです。それはものすごく大きなプラスの経験になりました。ところが母が亡くなってから曲を作ることができなくなってしまったんです。介護をしている時も平気で曲を作れたんですが。きっとその時はバランスがうまく取れていたんでしょうね。

 大切な人の死というあまりにも大きなテーマに直面して、何でもないことを曲にするという私の方程式が崩れてしまい、曲作りへの意欲がなくなっちゃったんです。母が亡くなってお家の中を片づけて、ようやく小原さんとの生活ができるというのに、まるで誰かが音楽を作る肝心なものを持って行ってしまったような。今になってようやくお話ができますが、これまで自分の心をくみ上げて歌詞を書いていたんですが、そうすると触れたくないものに触れてしまうから、悲しくてしんどかったんだと思います」

小原「それを後になって本人から聞いたんですが、そこまで思い詰めているとは知らなくてね」

尾崎「それからコロナ禍になって小原さんとYouTubeの配信を始めたんです。曲は作れないけれど歌は歌える。それで改めて2人でやってみると、迷子になっているのは自分だけじゃないって気付いたんです。やっぱりミュージシャンは大勢の皆さんに音楽という言葉で何かを発信しなくちゃいけないんだって。

 そんなタイミングで都内の中学校の校歌を作って欲しいと頼まれたんです。曲を書けないと思っている私がレガシーになるような大切な校歌に真剣に向き合うことができるのか? そう考えた瞬間、ものすごく書かなきゃいけない、いや書けるぞという力が湧いてきて、『明和の風 吹き抜ける時』という歌を作ることができました。

 そこでようやく今回のアルバム制作に進むぞ!となったときに小原さんが冷蔵庫に貼ったメモを指して、『あれを絶対に作ってね』って」

小原「お義母さんのお別れの会の後で義弟たちと話をしていた時に、彼女がふと言った言葉が良いなと思って、たまたまメモを残しておいたんです」

尾崎「やっぱりスタートを切るなら母と向き合わなくちゃって。それで『メッセージ』という曲が完成しました。今回の大きなテーマは喪失を体験した人たちのいろんな物語を集めたアルバムなんです」

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