進学校中退、バンドマンからパチスロ界のレジェンドへ アニマルかつみの異色すぎる転身の裏側

とあるジャンルで、レジェンド的存在の人物がいる。昨年8月に還暦を迎えた、パチスロライター・アニマルかつみだ。攻略誌「パチスロ必勝ガイド」(ガイドワークス)を拠点に30年以上執筆活動を続ける大ベテランだが、元々は数々のバンドでベーシストとしてサウンドを支えるミュージシャンだった。なぜ、パチスロライターへと転身したのか。その経緯などを聞いた。

パチスロライター歴30年超のアニマルかつみ【写真:ENCOUNT編集部】
パチスロライター歴30年超のアニマルかつみ【写真:ENCOUNT編集部】

パチンコ・パチスロ業界で活躍する人物にフォーカス、第1回はアニマルかつみ【前編】

 とあるジャンルで、レジェンド的存在の人物がいる。昨年8月に還暦を迎えた、パチスロライター・アニマルかつみだ。攻略誌「パチスロ必勝ガイド」(ガイドワークス)を拠点に30年以上執筆活動を続ける大ベテランだが、元々は数々のバンドでベーシストとしてサウンドを支えるミュージシャンだった。なぜ、パチスロライターへと転身したのか。その経緯などを聞いた。(取材・文=濱マモル)

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「いわゆる『金八先生』世代で、校内暴力があったりして。まぁ元々、尼崎という街自体が大人も子どももやんちゃでしたからね。そんな中、どん底の中学校に行っていたんですけど、漠然と頑張って勉強して、地元で一番の進学校に行ってみようと思ったんです。でも結局、その学校に入るというゴールしか定めておらず、長期的なスパンでは考えてませんでした。すんなり入れたけど、合格後はふわ~っとしていて。ロック音楽に傾倒し始めて。高校に入ったけれども、やっぱりレベルが高くて、全然ついていけなくて」

 アニマルかつみは、1965年に兵庫県尼崎市で生まれた。高校は地元の進学校に入学するも、2年目の春に退学の道を選んだ。「不幸の始まりは体育教官に目をつけられたことでしたね。体育の日は学校に行かなくなって、その流れで退学することになりました」。

 退学後は、学校の紹介で神戸市長田区にある定時制高校に編入。昼はゴム製品工場に就職した後、通う面倒がないだろうと住み込みで美容師見習いとして働いたが、美容師見習いは半年、定時制高校は1年ほどで辞めてしまった。

「手に職も付けられるし、やりがいはあったんですけどね。休みの日にライブハウスに通っていて、その当時はジャパニーズヘヴィメタルがはやっていたんです。ステージを観て、『あ、こっちをやりたいな』って」

 その後は、バンド活動とアルバイトの日々。何をやっても続かなかったそうだが、そんな折、パチスロメーカーの工場でのアルバイト募集を見つける。

「多様性なんてなかった時代でした。髪の毛がちょっとでも長い、ちょっとでも色が違うというだけで、職種がものすごい限られる。1985年当時、関西でレコードショップの店員、喫茶店のウエイターは大体、時給450円くらい。その時代に『パチスロ機の組み立て。時給800円』。パチンコ屋に“スロットマシン”じゃなくて“パチスロ”というのがあるというのは一応、知っていたので、これはすごい……と。で、すぐに電話したんです。『バンドやっていて髪の毛が長いんですけど、大丈夫ですかね?』って聞いたら、『あぁ、構わんよ。うち、工場やし。そういや、うちでもギターやってるやついるわ。で、いつから来れんの?』って」

 翌日、履歴書を持参して向かうと、即採用された。豪華な弁当付きで、交通費も自己申告での全額支給。あまりの好待遇に仰天したものの、通勤が遠く、2か月ももたなかった。作業の合間に実機を試打したこともあったが、現時点では、まだパチンコ・パチスロには魅かれず。本格的にホールへと足を運ぶようになったのは、平成元年の春だった。

パチンコ本格デビューのきっかけはバンドメンバーの誘い

「たまたまバンド仲間がパチンコ好きで。『たまには付き合えや』って言われて。羽根モノで数百円で当たって。当たりっぱなしであっという間に4000発。そこで、生まれて初めてまともに大勝ちできた。まぁこれはまぐれだなと思ったんだけど、後日、近所のコンビニに行ったら『パチンコ攻略マガジン』って雑誌があって、『何月号』って書いてあるんですよ。

 こういうパチンコ雑誌が定期で出てるんだ。『どれどれ?』と見たら、パチプロの日記とか、釘の読み方、ゲージがイラストで描いてあって。なるほど、こういう知識をつけて、しかるべき接し方をすれば勝率を上げることができるんだっていうことが分かったんです。ただの当て物じゃないんだ、パチンコって。そう思って、ちょっと考え方が変わりました」

 元来、興味を持つとのめり込む性格。当時では主流だった羽根モノの定量制、その開放台を打つことで、それなりの収支を上げていたという。一方、バンドとしては、1987年にWOLFでメジャーデビュー。翌88年に脱退した後は、RATTLE SNAKEを結成する。このRATTLE SNAKEのメンバーが、先述したパチンコ好きのバンド仲間だ。

「本当、RATTLE SNAKEのメンバーに誘われなかったら、今の自分はなかったかもしれない。みんなプラプラしている人間ばっかりだったから、昼間はスタジオで練習して、終わったら『よし、行こか』って。あと、ローディーというかスタッフが『どこそこで今日、新装(開店)でっせ』って言ったら『お、行こか!』って。で、ツアーに出るじゃないですか。東名阪とか。機材車で移動して(朝)9時くらいに着いて。でも、ライブハウスが開くのは大体、昼頃。『じゃあ行こか!』って」

 当時、打つのはパチンコがメイン。パチスロに触れたのは、ありがちな“ミス”からだった。

「朝からデジパチを打っていて、けちょんけちょんに負けて。財布の中はあと1万円。これをスッちゃったら明日からアルバイトをするか、誰かに金を借りようかっていう状況で、パッて(札を)入れたら、それがメダル貸し機だったんです。もうヤケになって打ったら、すぐ当たって。1回交換だったので、もう1000円打ったら、また当たって。違う台でもう1000円だけやったら、さらに当たって。パチスロって簡単やなという短絡的な考えでした。そこからですね、パチスロを打ち始めたのは」

東京のバンドに誘われ上京も…腱鞘炎の悪化で断念

 その後、RATTLE SNAKEを脱退。1991年1月、東京のバンドに誘われたことで上京を決断する。

「RATTLE SNAKEも、関西レベルでは人気が出てはいたんです。CDも、もちろん出していました。事務所から給料は出なかったけど、月イチのライブでまぁまぁなギャランティーが出て、それをなんとか転がして生きていたんですよ。でも、段々とバンドの方向性も変わってきて。大体、2年周期で『バンドやめたいな』って気分になっていたんですよ。

 そしたら、東京のバンドから誘われて。当時、同棲していた彼女、後の最初の奥さんを東京から呼び寄せていたんですが、『やっぱり帰りたい』となっていました。自身も大阪での生活や活動に限界を感じていて。20代の半ばになって、ぬるま湯なことをやっていてもしょうがないなって、一大決心でしたね」

 当然、目標は音楽での成功。期待を胸に地元を離れるも、いざバンドに加入すると、事前の情報とはやや違っていた。

「誘われた時はレーベルもあって。『頑張ろうぜ!』みたいな感じで言ってくれたんだけど、いざ入ってみるとレーベルも資金難で全然音源も出してくれないし。バンド内の空気も……。1年ちょいかな、自分も腱鞘炎になっちゃって、医者から『これ、無理してやってたら箸持てなくなる』って言われちゃいました。

 あと東京に出てきて、家賃をはじめとして物価が……。関西といろんな習慣も違うし。なんかぐったりしちゃって。音楽への興味も段々薄れてきて。で、同棲していた彼女も年齢的なものもあって。1回、距離を置こうかって。いよいよ、これはバンドやってる場合じゃないぞって。どうしよう、東京まで来て。いまさら帰るのもあれだし。じゃあ、東京で何をやればいいんだろうって悶々としていたんですよ」

 そんなタイミングで、ターニングポイントが訪れる。大阪在住時、「パチスロ必勝ガイド」の読者プレゼント目当てでのハガキ投稿をきっかけに、旅打ちをアテンドした誌上プロ・秋山宏一氏と、偶然にも都内のパチンコ店で再会。パチンコ・パチスロともに規則が改正された時期だった。

「『立ち話もあれなんで、喫茶店でお茶でも』となって、いろいろ世間話をしました。パチスロは、まだ3号機。そしたら『出てみませんか?』って。当時は秋山プロが『13時間デスマッチ』という1人で13時間打つ企画をやっていたんです。たまに読者を募って対決形式でもやっていて。本当にヘビー読者だったので、『もう、喜んで!』と二つ返事。『憧れの雑誌に出られる』と、その先のことも何も考えずに引き受けました。その結果が今に至るって感じですね」

 この『13時間デスマッチ』での文章が評価され、編集部からスカウト。パチスロライター・アニマルかつみが誕生したのである。

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