日本人初のジャーマン・スープレックスの使い手 裸足の男の真実

何とも貴重な写真を入手した。「闘う区議」西村修秘蔵の1枚で、ヒロ・マツダがサム・スティムボートにジャーマン・スープレックスを決めている。見事なブリッジで鮮やかな弧を描き、芸術的なジャーマンSのお手本だ。

ロングガウンも似合ったヒロ・マツダ【掲載:ENCOUNT編集部】
ロングガウンも似合ったヒロ・マツダ【掲載:ENCOUNT編集部】

ヒロ・マツダの輝く功績 柔和で紳士な横顔

 何とも貴重な写真を入手した。「闘う区議」西村修秘蔵の1枚で、ヒロ・マツダがサム・スティムボートにジャーマン・スープレックスを決めている。見事なブリッジで鮮やかな弧を描き、芸術的なジャーマンSのお手本だ。

 日本人初のジャーマンSの使い手であるマツダ。力道山のワンマン体制だった日本プロレスに背を向けて1960年に単身、日本を飛び出し、海外マットに活路を見出した。

 南米、メキシコ、アメリカで大活躍。力道山没後、1966年に凱旋帰国し、カール・ゴッチに伝授されたジャーマンSを公開した。裸足のまま洗練されたテクニックを披露し、日本マット界に新風を呼び込んだ。その後も世界で日本で大活躍している。

 フロリダに一時期、居を構えていた西村は、現地在住のマツダの薫陶を受けている。「普段は温厚そのものだけど、練習になると、まさに鬼になった。世界をまたにかけた国際人で、日本食がなくても全く大丈夫な人だった。堅実な生き方で無駄遣いは一切しない。とことん安全運転で、正直、ちょっとイライラするほど」と、恩師を思い出していた。

「裸足の戦士」は珍しく、昭和のプロレスファンは「アベベとマツダ」と、五輪マラソンV2の英雄アベベ・ビキラ(エチオピア)と並び称したものだ。

 こんなエピソードもある。新日本プロレスに参戦していたマツダに、ちびっこファンが無遠慮に聞いた。「おじさん、靴買えないの?」

 するとマツダは怒るでもなく、柔和なほほ笑みを浮かべ、「そうなんだよ。おじさん、靴買えないの。アメリカで頑張っているんだけどねぇ」と優しく答えた。

「頑張りが足りないんじゃない? もっと頑張ってね」と突っ込まれ、マツダは苦笑い。そばで見守っていた鬼軍曹・山本小鉄もつられて苦笑い。

 後年、マツダが藤波VSスティーブ・カーンのジュニア選手権の立会人として来日した際、少し成長したそのちびっこファンと再会した。ビシッとしたスーツに革靴姿のマツダに驚き、「おじさん靴買えるようになったの? 良かったね!」と無邪気に駆け寄った。

「おじさん、アメリカで頑張ったんだよ。だから君もお父さんやお母さんや先生の言うことをよく聞いて、勉強しっかりね」と返した。

「でも、おじさん、試合の時は裸足だよね。リングシューズまでは買えないの? もっと頑張らないとね」と、念押しされ「こりゃ参ったな」と頭をかくマツダ。永源遥が爆笑していた。

 柔和で紳士だった。愛妻家で娘さん2人にも恵まれた。1960年代に海外で日本人が単身、生きていくのは大変だったはず。苦労はおくびにも出さず、子どもに、そして若き記者にも真摯に優しく接してくれた。

 バーベキューでは、アルゼンチンで人気のチムチュリソースが大好きだったマツダ。1999年、62歳で肝臓がんのため、亡くなった。今では星の窓を開けて、世界のプロレス界を温かく見守ってくれている。(文中敬称略)

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