【プロレスこの一年 ♯15】ジャイアント馬場逝去、未来のエース棚橋デビュー 巨星が去り、新星が産声上げた99年

今から21年前の平成11年(1999年)は、日本プロレス界にとって大きな転機を迎える年となった。その年の10月10日、本欄が更新されるちょうどその日に、新日本プロレスの棚橋弘至が柴田勝頼、井上亘と同時デビューを果たした。将来の新日本、日本マット界を背負って立つ“100年にひとりの逸材”がプロレスラーとして初めてのリングに立ったのだ。それに先立つ1月31日には、全日本プロレスのジャイアント馬場が肝不全により死去。生涯現役ながらも享年61歳という若さでもあっただけに、衝撃が走り日本中が悲しみに暮れた……。巨星がこの世を去り、新星が産声を上げた99年を振り返る――。

日本武道館での「ジャイアント馬場お別れの会 ありがとう」(1999年4月17日)【写真:平工 幸雄】
日本武道館での「ジャイアント馬場お別れの会 ありがとう」(1999年4月17日)【写真:平工 幸雄】

【プロレスこの一年 ♯15】99年のプロレス……馬場逝去、橋本VS小川、ムタVSニタ、未来のエース棚橋デビュー

 今から21年前の平成11年(1999年)は、日本プロレス界にとって大きな転機を迎える年となった。その年の10月10日、本欄が更新されるちょうどその日に、新日本プロレスの棚橋弘至が柴田勝頼、井上亘と同時デビューを果たした。将来の新日本、日本マット界を背負って立つ“100年にひとりの逸材”がプロレスラーとして初めてのリングに立ったのだ。それに先立つ1月31日には、全日本プロレスのジャイアント馬場が肝不全により死去。生涯現役ながらも享年61歳という若さでもあっただけに、衝撃が走り日本中が悲しみに暮れた……。巨星がこの世を去り、新星が産声を上げた99年を振り返る――。

 馬場についてはさまざまな情報が錯綜するなか、翌2月1日になってから正式に逝去が伝えられた。亡くなったのは前日の午後4時4分。ちょうどこの日の夜、東京・後楽園ホールではウルティモ・ドラゴンがメキシコで開校したプロレススクール闘龍門が、初めての日本逆上陸興行を開催。超満員の観衆を動員し、マグナムTOKYO、ドラゴン・キッド、シーマ・ノブナガ(現CIMA)らがメキシコのルチャリブレをベースにした最先端のプロレスを披露し喝采を浴びたばかりだった。

 2日には馬場の密葬が執り行われ、4月17日にはあらためて「ジャイアント馬場お別れの会 ありがとう」を日本武道館で開催。また、5月2日には東京ドームにて「ジャイアント馬場引退記念試合」が企画され、馬場&ザ・デストロイヤー組VSジン・キニスキー&ブルーノ・サンマルチノ組という“夢のカード”がマッチメークされた。リング中央には馬場が使用した16文シューズが置かれ、ジョー樋口が“最後の試合”を裁いたのだった(この年には新日本2・14武道館でマサ斎藤が引退試合、2・20にジャンボ鶴田が引退を発表し、3・6日本武道館で引退セレモニー。リングス2・21横浜アリーナにて前田日明がアレキサンダー・カレリンを招聘しラストマッチを行った)。同大会でベイダーを破り三冠ヘビー級王座を奪回した三沢光晴は、ドーム大会から5日後、新社長に就任。全日本の経営陣が刷新され、馬場なき全日本プロレスが正式にスタートしたのである。

 この年の新日本は、橋本真也と小川直也の遺恨で幕を開けた。1・4東京ドームでは両者が通算3度目の一騎打ちも、小川の“仕掛け”をきっかけにノーコンテスト無効試合の裁定。混乱のなか小川はマイクを取ると両手を広げて飛び立つ飛行機ポーズとともに「新日本ファンのみなさん、目を覚ましてください!」とアピール、1月22日には坂口征二社長が小川の所属するUFOとの絶縁を宣言し、さらなる物議を醸すこととなった。同大会ではメジャーマット参戦に賛否両論の大仁田厚が新日本のリングを初めて“またぐ”ことに成功。佐々木健介との一騎打ちを火炎攻撃によって蹂躙(じゅうりん)し、“邪道魂”を大いに見せつけたのだった。

 その大仁田は4・10東京ドームにも参戦し、蝶野正洋を新日本史上初のノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチに誘い込み両者KO。第0試合という枠組みで引き分けながらも大仁田の世界観が新日マットを侵略した。そして大仁田は蝶野と5・31大阪でまさかの合体。蝶野&ドン・フライらと急接近し、超党派ヒールユニット「TEAM2000(チーム・ツーサウザンド)」へ一時的に合流したのである。

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