【プロレスこの一年 ♯14】猪木がゴッチを破り世界ヘビー級王座奪取 日本、国際、新日本、全日本の4団体時代だった72年

今から48年前の1972年(昭和47年)10月4日、新日本プロレスが蔵前国技館大会を開催、エースのアントニオ猪木がプロレスの神様と言われるカール・ゴッチを破り、旗揚げ戦(3月6日、大田区)の雪辱を果たすとともに、世界ヘビー級王座を奪取した。この試合は東京12チャンネルが時間差で中継。新日本の試合がテレビで放送されたのはこの試合が初めて。テレビ朝日がつくのはまだあとの話である。

アントニオ猪木(写真は1984年)【写真:平工 幸雄】
アントニオ猪木(写真は1984年)【写真:平工 幸雄】

馬場と猪木、日本プロレス同期の2人がそれぞれの道へと歩み始めた1972年のプロレス

 今から48年前の1972年(昭和47年)10月4日、新日本プロレスが蔵前国技館大会を開催、エースのアントニオ猪木がプロレスの神様と言われるカール・ゴッチを破り、旗揚げ戦(3月6日、大田区)の雪辱を果たすとともに、世界ヘビー級王座を奪取した。この試合は東京12チャンネルが時間差で中継。新日本の試合がテレビで放送されたのはこの試合が初めて。テレビ朝日がつくのはまだあとの話である。

 猪木は5日後のレッド・ピンパネール戦で初防衛を果たすと翌10月10日、大阪でゴッチと再戦。前回はリングアウトで敗れたゴッチだが、この試合ではキーロックを切り返しての押さえ込みから逆転のピンフォール、世界ヘビー級のベルトを奪回した。

 この頃、ジャイアント馬場は全日本プロレスの旗揚げに奔走。東京プロレスの旗揚げと崩壊を経験した猪木が3月に新日本を旗揚げすれば、馬場は陣容を整えて10月に団体をスタートさせた。72年とは、現在も続くプロレス界の老舗2団体、新日本と全日本が、60年に力道山の日本プロレスに同期入門した2人によってそろって歩みを始めた年なのである。では、48年前のこの年のプロレス界では、いったいどんな出来事が起こっていたのか。

 新日本の設立が発表されたのは年頭の1月だった。前年に日本プロレスを除名になった猪木が渡米し、ゴッチにブッカーを依頼。26日の会見で新団体発足が正式に発表され、29日には、世田谷区野毛の新道場で公開練習が行われた。旗揚げ戦は3月6日の大田区体育館で、メインは猪木とゴッチの一騎打ちだった。また、プロレス界から離れていた豊登が急きょセミで試合をするハプニングが発生、デビュー10か月の藤波辰巳(現・辰爾)がオープニングマッチに登場した。この大田区大会からスタートした「旗揚げオープニング・シリーズ」は4月6日までに14興行を開催。28日からは「オープニング・シリーズ第2弾」、6月13日からは再び大田区を皮切りに「オープニング・シリーズ第3弾」がはじまった。

 翌7月には馬場が日本プロレスに辞表を提出。8月18日の石巻が馬場最後の日プロ参戦となった。その後、馬場は渡米。帰国後の9月2日、保持していたインターナショナル2大王座(シングル&タッグ)の返上を発表した。タッグは坂口征二との「東京タワーズ」で5月19日にロサンゼルスで奪回したもので、これに先立つ5月には馬場がゴリラ・モンスーンを破り「第14回ワールドリーグ戦」を制覇していた。ワールドリーグ戦は3連覇で通算6度目の優勝、それだけに馬場の離脱は日プロに大きな痛手となったのである。

 9月9日、馬場は全日本プロレスの設立を正式にアナウンスした。10月17日には力道山の百田家が馬場の新団体に全面協力することを発表。21日の前夜祭を経て、22日に日大講堂にて旗揚げ戦。メインは馬場とブルーノ・サンマルチノのシングルマッチ3本勝負で、最後はダブルフォールの引き分けとなった。その後、31日にはミュンヘンオリンピックのアマレス日本代表、鶴田友美の入団が明らかになった。発表の席で「全日本プロレスに就職することを決意しました」とコメントしたのが、のちのジャンボ鶴田である。

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