「放射能がついてるから…って」主人を待ち続けた愛車、1年半後に再会も…無情な結末に涙

東日本大震災から14年あまり。10月上旬、福島・浪江町で初開催されたカーイベント「第1回 名車の祭典 in浪江町」では、復興を盛り上げようと全国各地から約200台もの名車が集結した。地元開催のイベントに、日産フェアレディZ Z33で参加した浅野一憲さん。磨き上げられた愛車には、今はなき“先代”の思いが受け継がれているという。原発事故で置き去りにされたまま、主人の帰りを待ち続けた愛車と、再会の後に訪れた無情な結末。涙の愛車物語を聞いた。

“先代”の面影を残した2代目のフェアレディZ Z33【写真:ENCOUNT編集部】
“先代”の面影を残した2代目のフェアレディZ Z33【写真:ENCOUNT編集部】

【愛車拝見#338】愛車を保管していた車庫が避難区域に、1年半後に再会も待っていた残酷な現実

 東日本大震災から14年あまり。10月上旬、福島・浪江町で初開催されたカーイベント「第1回 名車の祭典 in浪江町」では、復興を盛り上げようと全国各地から約200台もの名車が集結した。地元開催のイベントに、日産フェアレディZ Z33で参加した浅野一憲さん。磨き上げられた愛車には、今はなき“先代”の思いが受け継がれているという。原発事故で置き去りにされたまま、主人の帰りを待ち続けた愛車と、再会の後に訪れた無情な結末。涙の愛車物語を聞いた。

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 2011年3月11日、タクシー運転手だった浅野さんは、駅での客待ち中に地震に遭遇。突如、車体が浮かび上がるほどの激しい揺れに見舞われた。

「駅舎の瓦が落ちてくる。軒先にひびが入る。タクシーの屋根も傷だらけ。それはもうすごい揺れでした。地震が起きてすぐ、お客さんが駅の方から歩いてきて、『どこどこまでお願いします』なんて言ってきて、これがまた大変だった。国道6号も地割れがあって、あっちに行ったり、こっち行ったり。なんとかたどり着いたら、原発からみんな避難してくるもんだから、帰りがまた大渋滞でね」

 大混乱の中、タクシー運転手としてできる限りの職務を全う。夜になり、家族と連絡が取れたあと、真っ先に向かったのは、自宅とは離れた車庫に保管してあった愛車・フェアレディZのもとだった。道中は真っ暗でよく分からなかったが、後になって、車庫の50メートル手前まで津波による大量のがれきが押し寄せていたことを知った。幸い、愛車はギリギリのところで難を逃れており、ホッとして車庫を後にしたが、それが長い別れになるとはそのとき知る由もなかった。

 翌日から、防護服を着た関係者が続々と現地入り。地域全体が放射能汚染の危機にさらされるなか、浅野さんは妻子を連れて、母の実家がある横浜へと避難を余儀なくされた。3月14日の朝、普段使いしていたホンダ・エリシオンで南相馬市を出発。ガソリンスタンドには長蛇の列が並び、給油は1回につき10リットルまで。横浜に到着したのは翌15日の明け方だった。

 約半月の避難生活を過ごし、4月には南相馬市の自宅に帰ってこれたが、フェアレディZが眠る車庫は立ち入りが制限された原発20キロ圏内。その後も愛車との離別の日々は続いた。

「会えない時間はつらかったけど、正直あの頃は車どころじゃなかった。これからどうなるのかなっていう不安でいっぱい。それこそ車どころか、泣く泣く犬を置いてきたって話もそこら中であったんだから」

 震災発生から1年半の月日が過ぎるころ、ようやく段階的に避難指示が緩和。上がったバッテリーを交換しエンジンをかけると、愛車は離れていた主人との時間を取り戻すかのように動き始めた。

 だが、残酷な仕打ちは続く。「どこの車屋さんに頼んでも嫌がられてね。放射能がついてるから……って、持ち出せなかったんですよ」。預けることも持ち出すこともできないまま、時間ばかりが過ぎ、ついには手放すことを決めたという。

 それでもZを諦めきれず、2013年には中古で2代目となるZ33を購入。購入額は250万円ほどだったが、エンジンはすでに3基目で、ラジエーターやマフラーなど、かかった総額は「もう1台買えるくらい」。先代Z33の面影を重ね、購入から12年がたった今も大切に乗り続けている。

「この車で最後にしようと思ってます」。我が子を見るような優しいまなざしで、浅野さんはそう締めくくった。

次のページへ (2/2) 【写真】かかった総額は「もう1台買えるくらい」 こだわりの車体
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