身長173cm、股下83cm…モデル出身の上福ゆきがプロレスラーになるまでの波瀾万丈な道のり「頑張ってたら9年目に入ってた」
身長173㎝、股下83㎝。コール時に“カジュアルビューティー”と呼ばれる上福ゆきは、東京女子の中でも特に自然体でいるプロレスラーだ。幼少期を過ごした藤沢、オハイオ州。そしてモデルからプロレスラーへ転身した理由。上福の素に迫るインタビュー、まずは前編をお届けする。

コンプレックスだった背の高さを生かせるならと思って出たミスコンで…
身長173㎝、股下83㎝。コール時に“カジュアルビューティー”と呼ばれる上福ゆきは、東京女子の中でも特に自然体でいるプロレスラーだ。幼少期を過ごした藤沢、オハイオ州。そしてモデルからプロレスラーへ転身した理由。上福の素に迫るインタビュー、まずは前編をお届けする。(取材・文=橋場了吾)
上福ゆきは藤沢市で生まれ育ち、中学時代から3年強父親の転勤によってアメリカ・オハイオ州で過ごした。藤沢では、どのように過ごしていたのだろうか。
「友達も少なかったですし、いわゆる女子っぽくというのはあまりできない子どもでしたね。近所のおばちゃんが犬を散歩するところを追いかけていって、一緒に散歩しようと言ってみたり(笑)。(今は犬を飼っているが)実家では犬を飼えなかったので……。習い事も英会話教室にちょっと通わされたくらいで、本当に何していたんですかね(笑)。
ふわっとした、存在感がなかった子どもだったと思います。小6で163センチあったので、大人っぽい見た目だったとは思いますが。でも、友達とのコミュニケーションは上手にとれるタイプではありませんでした。幼稚園の頃、ブランコから落ちた子がいて、膝の砂を払ってあげたら、後から『ゆきちゃんに殴られた』という話になってしまって。いやいや、それはおかしいでしょって(笑)。心ではすごく心配しているんですが、言葉でうまく伝えられないんでしょうね」
このように誤解を受けやすい幼少期を過ごした上福だが、アメリカでもなかなか友達ができなかった。
「そもそも英語が話せなかったですし、アジア人というだけで人種差別はありましたね。英語を話せない期間は意志もないという扱いでしたし。そんな空気以下の扱いが1年ちょっとあって、少し英語を話せるようになってから初めて存在を認められて……数人できた友達は、フィリピン人やヒスパニックで多国籍な感じでした」
アメリカから帰国後、東洋大学に進学した上福はミスコンで準グランプリを受賞。巣鴨のご婦人たちから、絶大な支持を得た結果だった。
「大学でも全然友達ができなかったんですが、学費を出してもらっている以上、思い出が一切ないのも申し訳ないなと思っていたタイミングでミスコンの話があって受けてみたんです。本当、思い出作りで受けたミスコンだったんですが、それまでコンプレックスだった背の高さが、モデルのような仕事が得られるなら使ってもいいのかなと思い始めました。
ミスコン自体は組織票が強かったんですけど、自分は(東洋大のある)巣鴨のおばあちゃんたちの票が多くて(笑)。当時巣鴨の近くに住んでいたので、よく買い物に行ったり遊んだりしていて『背高いね~』と話しかけられることも多かったんです。『ミスコンに出るから投票してね』と言っていたら、みんな投票してくれて……ちなみにそのときはDHC賞という別の賞ももらって、(組織票なしで賞を獲れたのは)内心『だよね』と思っていました」

真実はひとつだから、自分を知っている人が理解してくれていたらそれでいい
ミスコンでの経験をきっかけに、上福は芸能界に入りレースクイーンとしても活躍した。
「(レースクイーンがちやほやされるのを見て)車がメインなのにおかしいなと思っていました。私は今もですが『私が、私が』というタイプでもないですし……ただ、身長を生かした仕事をさせていただくことはありがたいなと。でも、うまく媚びを売れなかったのもありましたし、色々と裏の部分を見てそれを雇用先に言ってしまったこともあって、クビになっちゃったんですけど(笑)。
そういう裏の世界にいそうと言われることもありますけど、自分と会話したことのある人は絶対にそんなことしないってわかるはずです。昔は気にしていましたけど、自分より有名人の人たちも言いたい放題言われているわけで、真実はひとつだから『もういいや』みたいな。自分を知っている人が理解してくれていたら、それでいいかなと思うようになりました」
自分にも人にも嘘をつけない上福ゆきが、プロレス界入りしたきっかけはどのようなものだったのだろうか。
「23歳のときですかね、このまま誰かと結婚して子どもを産んでと考えたときに、子どもに『●●したくない!』と言われたときに、『お母さんは頑張っていたんだよ』と言えないのは良くないなと思って。何もしていない人生は良くない……それでマネジャーに相談したら『セクシーな番組に出る』『プロレスをする』『不動産営業になる』のどれかと提案されて、あえて当時はまったく知らなかったプロレスを選んで。
最初は、六本木のルノワールで話を聴くだけの約束だったんです。でも、高木(三四郎=現サイバーファイト副社長)さんと甲田(哲也=東京女子プロレス代表)さんが、私が離席した後に『すぐデビューさせたい』という話になったらしく、数か月後のデビューが大人たちの間で決まってしまい……どうしようと思って、何回か飛ぼう(逃げる)と思いました(笑)。でもいい人たちだしなあと思って頑張っていたら、9年目に入ってしまいました(笑)」
(13日掲載の後編へ続く)
