【オヤジの仕事】玉袋筋太郎さん 自ら命を絶ったお父さんは「腕からスルッと…」

突然父親をなくした辛さは乗り越えた【写真:山田隆】
突然父親をなくした辛さは乗り越えた【写真:山田隆】

商売が傾くと父親は荒れるようになった

 でも、麻雀ブームにだんだんかげりが出てきちゃって、オレが中学1年の頃になると、雀荘を半分つぶしてホモスナックにしたんだ。今なら理解できるけども、当時はそういう世界に対して思春期の頃だから恥ずかしくてね。そのうえ、オレが熱中していた相撲とプロレスのことでケンカになった事もある。オヤジが「あれは八百長だ。マジメにみるもんじゃねぇ」なんて言うから頭にきてね。高校卒業する頃までろくに口をきかなくなっちゃった。

誰もがアッと驚く夢のタッグ…キャプテン翼とアノ人気ゲームのコラボが実現

 店の経営が大変だった頃は、オフクロが飲み屋でパートに出たこともあった。そうしたら、オヤジがやきもち焼いて、飲んじゃ荒れて。毎晩のように夫婦ゲンカ。取っ組み合いもあったよ。いやだったよね。

 でも、夜遊びに走ってアンパンやるとか、暴走族入るようなことはしなかった。9割が不良のような学校だったけど、グレるなんてかっこ悪いと思ってたから。信用して自由にしてくれてる親を裏切ることができないってのもあった。グレるより師匠(ビートたけし)のラジオ聞いているほうが、ずっと面白いと思ってたからかもしれない。だって面白い話をしているけど、当時の不良たちのアイドルだった音楽グループよりも、よっぽど師匠のほうが不良なんだもん。

たけし師匠弟子入りを最初から応援してくれた

 高校3年の夏、卒業後は師匠に弟子入りしようと決めてオヤジに話したら、「厳しい世界だけど、やるならやれ」って言ってくれた。“玉袋筋太郎”って芸名をもらったときは「こんないい名前ねぇぞ」と本気で言ってくれた。オフクロも同じでさ。嬉しかったね。世間が何と言ったって、両親が応援してくれんだから。

 あとでオフクロから聞いたんだけど、オヤジは「30歳までに芽が出なかったら、店を継がせよう」と言ってたんだって。メディアに出るようになったら、オレが出てるテレビは全部見て、雑誌は切り抜いてスクラップしてくれてたよ。

 オレが25歳で結婚したとき、オヤジは結婚に反対だったからしばらく縁遠くなったけど、自然にまた行き来するようになって。一緒に酒飲んで「急にオレ、墓参り行きたくなってよ」って言ったら「おめぇ、それがわかってくれたらじゅうぶんだ」って喜んでくれて、麻布の六本木ヒルズの裏にある墓に一緒にお参りした。今はオヤジもそこに眠ってんだけど、オレも死んだらそこに入って”ヒルズ族“になるんだ(笑)。

思い出いっぱいのオヤジには感謝しかない

 オヤジは亡くなる直前、喘息で入院したんだ。そのとき医者に「喘息がひどくて呼吸困難で入院したけど、それだけじゃありません。アルコール依存症とうつ病もあります」って言われたんだ。今から15年以上前だから、うつ病ってあまり知られてなかった頃。信じられなかった。何言ってんだ、大丈夫に決まってんじゃん、って。死ぬ2日前に見舞ったときも、「オヤジ、お楽しみはこれからだよ」って言って励ましたつもりだったんだ。

 すげぇ仲良かった親族と相続で裁判沙汰になったこと、姉夫婦の度重なる借金のしりぬぐい、仕事やめて慣れない土地に引っ越したこととかでアルコール依存症になって、アルコール依存症からうつ病に入ってったんだろうな。オレはまだ若くて何も助けてあげられず無念だったなぁ。死なれたときはまいったね。なんていうか、腕の中からオヤジにスルッと抜けられちゃった……そういう感覚なんだよな。

 今もオヤジの誕生日が来るたび、生きてたら〇歳だな、って考える。何プレゼントしたら喜んでくれただろう、って。だって感謝しかないから。育ててくれて、いろんな思い出もらって。きっとオヤジもオレとの時間で幸せを感じてくれたんだよな。そう思うと、たまらないよね。

東京・赤坂でスナック経営を始めた(事務所提供)
東京・赤坂でスナック経営を始めた(事務所提供)

○玉袋筋太郎(たまぶくろ・すじたろう)1967年6月22日、東京・新宿生まれ。実践商業高校卒業後、ビートたけしに弟子入り。87年、水道橋博士とお笑いコンビ、浅草キッドを結成し「浅草橋ヤング洋品店」(テレビ東京)などで活躍。2014年、一般社団法人全日本スナック連盟設立。17年、東京・赤坂に「スナック玉ちゃん」オープン。

次のページへ (4/4) 表情を変える時も
1 2 3 4
あなたの“気になる”を教えてください