角田信朗が振り返る激闘史 VS極真空手は「戦争」 曙は「人を超えていましたね」

他流試合で衝撃の一本勝ち ベスト4進出

――勝たせてもらえないっていうのは凄い話ですね。

角田 ホントですよね。でも、僕と柳澤君が残って、重量級のベスト8をかけた試合に柳澤君が勝ったんですけど、彼はもう打ち上げられたシャチみたいに、胸の周りが真っ黒に内出血して大の字になっているから、みんながそっちの介抱に行くわけですよ。僕1人だけ階段に座って、ウチの弟と2人で「次、どうしよ?」みたいな感じでいて。ウチの弟は僕のことを「オッサン」て呼ぶんですけど、「オッサン、あれ使え、あれ。初めての相手なら絶対に引っかかるから、その代わり、ワンチャンスやな」って。

――隠していた必殺技があったんですね。

角田 ええ。それで次の試合で僕の蹴った左回し蹴りが相手の後頭部に当たって、相手が僕のほうに倒れてくるんですけど、ああいう瞬間て、本当にスローモーションになるんですね。

――スローモーションに!?

角田 その時、(大阪)府立体育会館の天井が凄い真っ白で、こんなに明るかったかなーっていうくらい、妙に明るかったですね。

――石井館長も「これは正道に何か憑いてるとしか思えないよね」と言われていたとか。

角田 そう言われていましたね。「この状況で、この場面で一本勝ちできるわけがない」って。と同時に「次の試合はもうダメだね」って。僕がそこで出し切っていることが分かっていたんでしょうね。

――石井館長だけ冷静だったと。

角田 でしたね。だけどね、ホント普通なら旗が上がるような蹴りが入っても、取ってくれないわけですよ。だから最後はもう、顔面を殴って反則負けでもいいから相手を倒して、「何がケンカ空手だ! 倒れているのはそっちやろう!」ぐらいの気持ちで行っていましたね。

――そして、準決勝戦まで上がったのは角田さんだけになった。

角田 準決勝も、今思えばどうってことない試合なんですよ。こうしてこうして行けば勝てるっていう。だから僕の試合はプロ、アマチュアを通してですけど、自分に負けてる試合が非常に多かったですね。それがファイターとしては情けないなっていう。

――それでも他流派で唯一の4位入賞を果たした。

角田 最低限の役割は果たせたなと思いましたね。

――その後、空手はもちろん、プロになってからもリングスやK-1でも激闘の数々があって、K-1の競技統括プロデューサーにもなって、語ってもらいたいことはいろいろあるんですけど、中でも43歳で闘うことになった、曙戦(2005年3月、韓国)の話を改めてお聞きしたいです。

角田 曙戦ですか。

――是非お願いします。まず試合の話の前に向かい合うじゃないですか。そこで何を思うんですか?

角田 壁ですね。

――壁!

角田 業務用冷蔵庫的な。

――悪い意味じゃなく、そうなると人間じゃないですね。

角田 例えばレフェリーをしていても、選手たちに触った時の感覚が、もうサイとかカバの感覚なんですよ。だから人間のカラダじゃないですよね、あの人たちは。

――いい話ですよね、それって。まさに超人追求には持って来いの相手と角田さんは闘うことになったと。

角田 いや、僕はその前に武蔵戦(2003年5月、米国ラスベガス)で引退していてね。もちろん、当時、一番いい時の武蔵が相手だから勝てないとは思っていたけど、やってみたら、ここまでやられるかっていうとこまでやられて、悔しさのほうが強かったから、自分のそれこそ超人追求の夢がここで終わってしまうのかと。本当にもうできないのかっていう相談をして、もう一度、ゼロから体を作り直して、闘わせてくださいと丁寧にお願いをしたんですが、復帰第1戦目に「曙」と言われたので、僕に対戦相手を選ぶ権利はないですけど、今、曙とのカードを組むと、曙を勝たせるために無理やり角田を現役復帰させたように思われるのが僕は嫌だと。

――それでも曙戦でやってくれと言われたわけですね。

角田 ええ。僕はあの試合前には2週間のキャンプを2回張って。1日に4部練(4回練習すること)をして。あの時は加圧トレーニングでどんどんカラダも変わっていって。とにかく動いて動いて動いてっていう練習をしていたんですけど、リングに上がったらトレーナーから「師範、動く練習をしてきたけど、無理。動いても回り込めない。でも今までの練習は絶対に無駄にはならないはずだから、師範の思うように闘ってください」って。ゴングが鳴る直前ですよ。

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