【プロレスこの一年 #8】プロレス界が大きな悲しみに包まれた三沢さんの訃報、高山善廣の完全グランドスラム
プロレス界が大きな悲しみに包まれた6月
5月6日の日本武道館で三沢&潮崎豪組がグローバル・タッグリーグ優勝。6月13日の広島でバイソン・スミス&齋藤彰俊組が保持するGHCタッグ王座に挑戦した。しかし、試合中の事故(頸髄離断)により三沢は搬送先の病院で帰らぬ人となった。団体はおろか日本有数のトップレスラーがメインのタイトルマッチで亡くなるという前代未聞の出来事は、マット界を飛び越え一般メディアにも衝撃を与えた。翌14日の博多では急きょ、潮崎VS力皇猛のGHCヘビー級王座決定戦がおこなわれ、潮崎が初戴冠。三沢亡き後のNOAHを支えていく決意を見せた。NOAHでは7月4日に「三沢光晴お別れ会~DEPARTURE」をディファ有明で開催。約2万5000人のファンが献花し、入場待ちの行列は2キロ以上にも及んだのである。また、6月14日には大阪プロレスのテッド・タナベレフェリーがレフェリング後に倒れ、急性心筋梗塞で死去。2人とも享年46歳の若さだった。
2005年7月に40歳で逝去した橋本真也の息子、橋本大地が初めてプロレスのリングに登場したのもこの年だ。ZERO1の9・21後楽園にキックボクシングエキシビションマッチで登場。この大会は武藤、蝶野と同様、橋本の「デビュー25周年記念大会」で、このとき17歳の大地がプロレスラーとしてリングに上がるまでには1年半後の11年3月6日の両国まで待たなければならない。
主要団体のトップレスラーが大会場でリンクしていったこの年は、メジャー以外の団体でも大会場に進出する傾向が見えた。DRAGONGATEとDDTが両国国技館に初進出。闘龍門から独立した形となるドラゲーは地方興行を充実させながら都内での1万人規模大会を成功させた。DDTはメジャー団体とは異なるエンターテインメント的アプローチで濃いファンを獲得。現在、両団体とも同規模会場で定期的に興行を開催している。それだけに、2009年とはメジャー未満の団体でもビッグマッチを開催できる可能性があることを見せつけた年でもあったのだ。
2005年の全日本女子、GAEA JAPAN解散以来低迷していた女子プロレスにおいても、この年、ビッグマッチを実現させる団体が現われた。さくらえみがマットでの試合からスタートさせたアイスリボンが1月に道場兼常設会場を埼玉県蕨市にオープン。アイスリボンは道場での定期戦と他団体出場で選手の知名度を業界内でアップさせ、5月にはアクシデント絡みながらもさくらがNEOの王座を獲得、8月には聖地・後楽園ホール進出を実現させた。1500人で超満員となる後楽園だが、当時の女子、しかもリングのない団体から成り上がっての実現だけに後楽園大会はビッグマッチに匹敵する価値を持っていたと言えるだろう。創設者が離れたとはいえ、そのアイスリボンもいまでは横浜文体での大会を複数回開催できるまで成長。この年、さくらは5年間「該当者なし」だった女子プロレス大賞を復活させた。2009年は規模の大小に関係なく、ファンが好きな団体を自由に選択できる時代となっていたのである。
(文中敬称略)