【インタビュー】“プロレス実況界の鉄人”村田晴郎が出来上がるまで 初めて語る裏話「最初は『できません』と…」

日本・海外、男女を問わず村田晴郎の実況はいろいろな団体で聴くことができる。その実況スタイルはオリジナリティにあふれ、プロレスを画面で観戦しながら多くのファンが独特の調子に酔いしれている。このオリジナリティがどこから来ているのか、初めて語っていただいたのだが全プロレスファン必読の裏話が……。

プロレスファンならば誰もが知る声・村田晴郎【写真:橋場了吾】
プロレスファンならば誰もが知る声・村田晴郎【写真:橋場了吾】

大学時代はバンド活動に明け暮れ少し卒業が遅れ工場に就職

 日本・海外、男女を問わず村田晴郎の実況はいろいろな団体で聴くことができる。その実況スタイルはオリジナリティにあふれ、プロレスを画面で観戦しながら多くのファンが独特の調子に酔いしれている。このオリジナリティがどこから来ているのか、初めて語っていただいたのだが全プロレスファン必読の裏話が……。(取材・文=橋場了吾)

 村田晴郎の学生時代は、いわゆる昭和のプロレス黄金期。新日本にはアントニオ猪木、藤波辰巳(現・辰爾)、長州力、初代タイガーマスクがいて、全日本にはジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎がいた。

「僕がプロレスにはまったのは初代タイガーマスク選手の時代ですね。『金●先生』ではなく『ワールドプロレスリング』を見ていた派です。全日本ではザ・グレート・カブキ選手が凱旋(がいせん)して大ブームになっていたときですね。今でこそ実況席でプロレスを見るのがほとんどですけど、当時はテレビ派でした。やっぱり中学生には自分たちでチケットを取るのは今よりハードルが高かったですから」

 そんなプロレス好きな村田少年は、将来プロレス関連の仕事に就こうと思っていたのだろうか。

「職業としてはまったく考えていなかったですね。おぼろげにプロレスラーになりたいというのはあったかもしれないですが、当時は『身長180センチ以上・体重85キロ以上』みたいな入門条件を真に受けていましたからね(笑)。でものちにウルティモ・ドラゴン選手に聞いたら、そういうのを関係なく応募しちゃう人がプロレスラー向きだと……確かに(笑)。僕は普通に大学に行って、バンドをやって、遊びすぎて卒業まで時間がかかって(笑)、工場に就職しました」

 ノートには技名がぎっしり書かれていた【写真:橋場了吾】
ノートには技名がぎっしり書かれていた【写真:橋場了吾】

DDTで試した“WWFアティチュード路線”の実況スタイル

 実はその就職のタイミングで声の仕事の養成所にも入所した。

「オーディションを受けて養成所にも入って……工場は5年ほどで辞めたんですが、養成所にいたので“道”がもうひとつできていたんですよね。帰ったんです。まあ、その養成所の広告にも『半年後にデビュー』という全然かなわなかったことも記載されていたんですが(笑)。それでナレーターの仕事を始めて、そこからプロレスの仕事につながりました。プロレスリング・ノアが2000年に旗揚げされるんですが、既存のアナウンサーではなく実況チームを一新したいということで、たまたまナレーター事務所に新人で入ってきた僕が抜てきされたんです。それまでナレーションで原稿を読むことしかできなかった人間がいきなりですよ(笑)。

 最初は『できません』といったんですが、『ほかの事務所に仕事を取られたくない』と事務所の社長に言われてしまい……僕がよく見ていた試合の実況は辻(義就、現・よしなり)さんで、辻さんのフレーズやリズムみたいなものはなんとなくイメージに合ったんですが、まねは無理なんですよ。あの個性を自分のものにしようと思っても絶対無理。一方で自分らしさを出すのもすごく難しいんですよ。それができたら一人前です(笑)。実況デビューはノアで、アルシオンもやりましたね。それでDDTの実況をするわけですが、DDTをやっていなかったら今の新日本やAEWにはつながっていなかったと思います。僕の形がDDTで定まりましたし、認知度も上がったのかなと思います」

 そのDDTの実況で、村田はあることを試した。それが村田の“個性”となった。

「僕はDDTで鈴木健さんと組んで実況したんですが、ここである人たちをモチーフにした実況を試してみたんですよ。それがWWF(現・WWE)のアティチュード路線の実況解説チームだった、JR(ジム・ロス)とジェリー“ザ・キング”ローラーのタッグです。アメリカンプロレスの実況スタイルを日本でやってみようと。僕の実況のリズムは、アメプロのリズムなんですよ。英語のリズムや語り口調をお手本にして……日本のプロレスから始まってサラリーマン時代にWWFにハマってずっと見ていたんですよ。面白くて、カルチャーショックでしたよね。

 ノアの実況を始めたときに、先人のマネをしようと思っても全然うまくいかない、しっくりいかない……もうこれは違う立ち位置でいかないと、埋もれて仕事にならないなと。それでWWFの実況スタイルをどこで使えるか探していたら、それがDDTだったんです。2004年からFIGHTING TV サムライで『DDTドラマティックファンタジア』が始まったので、高木(三四郎)さんとのご縁も四半世紀ですね。DDTの実況をやって、僕の運命は変わりましたね。その後2014年に『新日本プロレスワールド』が立ち上がって新日本の実況にも入って……今は、DDT、新日本、AEW、スターダム、東京女子、マリーゴールドの実況が中心になりました」

(31日掲載の後編へ続く)

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