大鶴義丹、父・唐十郎さんの演出受ける機会失い後悔「なんでしなかったのかな」

俳優の大鶴義丹が5日、都内で報道陣の囲み取材に応じ、父で劇作家の唐十郎(から・じゅうろう、本名・大鶴義英=おおつる・よしひで)さんについて回顧した。

取材に応じ、父・唐十郎さんへの想いを語った大鶴義丹【写真:ENCOUNT編集部】
取材に応じ、父・唐十郎さんへの想いを語った大鶴義丹【写真:ENCOUNT編集部】

急性硬膜下血腫で死去

 俳優の大鶴義丹が5日、都内で報道陣の囲み取材に応じ、父で劇作家の唐十郎(から・じゅうろう、本名・大鶴義英=おおつる・よしひで)さんについて回顧した。

「アングラ演劇の旗手」と称された唐十郎さんは4日、東京・中野区の病院で死去。唐さんが主宰する劇団唐組が5日朝、「5月4日21時01分に急性硬膜下血腫で永眠致しました」と発表した。唐さんは84歳だった。

 大鶴は、取材陣を前にすると「父、唐十郎が、ここ10年くらいちょっとね、健康と戦う時間があった」と説明し、少し間を置いてから「旅立ちました」と報告。

 自身の出演舞台が昨日初演だったと説明し、「因果と言いますか、この芝居が終わるのがちょうど9時過ぎだった。父を看取ることができなかった」。唐十郎さんが逝去して「30分くらい後に、この芝居を終わって駆けつけた。まだ少し体温が残っている感じで」と当時の状況を振り返った。

 唐十郎さんについて「父はよく私に『三度の飯を作るように芝居を作りたいんだ』みたいなことを言っていた。そんなことを思い出した。自分のテントの劇場の舞台に飛び込んでいくときに、僕の方に振り向いてニヤッと笑って、とても嬉しそうに舞台の上に(行く)。現実世界よりも、舞台の上に立っている時間のほうが幸せである、かのように空間に飛び込んでいった姿を思い出した」と述懐。

「芝居が好きで、芝居しか考えていなかった」と評し、「本名は『大鶴義英』と言うんですけども、大鶴義英よりも、唐十郎という姿を、子どもの僕、それこそ青春時代まで見せる父でしたね」と振り返った。そして、「うちの父というのは大鶴義英じゃなくて、実はもう99%、もしくは100%、唐十郎だったのかな」とうっすら笑みを見せる一幕も。長男である大鶴さんに対して「優しくして、甘やかしてくれた」という。

 一方で、演劇人として唐さんは「厳しいですね」。ダメ出ししないでニコニコ笑っていたと話し、「なかなか父の求める芝居に表現できる俳優さんは少ないのかな」と述べた。自身は「父の演出は受けたことない。どこかで父への反抗心はあった。父の戯曲はやっても、別の演出家さんとしか仕事していない。でも、振り返るとそういうチャンスもあった。もっとなんか……対抗心を持たずに、父の演出で、父の戯曲の芝居をする機会があったのに、なんでしなかったのかな、なんてことも思いますね」と後悔を口にした。

 それでも長きにわたり、劇団で飛び跳ねるように活躍する日々から病床まで目のあたりにして「人生をいろいろ見せてもらいましたね」。「まさに昨日の舞台の初日が終わった時間に父が亡くなった。本当に『役者は親の死に目にも会えない』とよく言いますけども、『絶対に芝居を完結しないといけないんだよ』ということを最後に父が、父の死をもって教えてくれたということは感じました。最後まで粋な演出をする父だなと。最後の死の瞬間をもってまでも、劇空間的に教えてくれた。『最後の最後まで演劇人だったな』という感じですね」と手放しで称えた。

 唐さんは、1940年2月11日、東京・下谷万年町で生まれ育った。明治大文学部演劇学科卒で、63年に「シチュエーションの会」(64年に劇団「状況劇場」に改名)を結成。同劇場では根津甚八、小林薫、佐野史郎ら多くの俳優を輩出した。また、67年に新宿花園神社の境内で紅テントを建てた公演『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を上演。大きな話題になった。その後も作品の内容について、地元商店連合会などから「公序良俗に反する」として排斥運動が起こり、神社総代会から68年6月以降の神社境内の使用禁止が通告される事態になった。

 その後、状況劇場は紅テントをゲリラ的に建てて数々の芝居を上演した。『泥人魚』『少女仮面』『唐版・風の又三郎』など代表作多数。多くの演劇関係者が影響を受けたことでも知られいる。

 プライベートでは、状況劇場の看板俳優だった李麗仙さん(享年79)と67年に結婚。翌68年に長男で俳優の大鶴をもうけたが、88年に離婚している。訃報を受け、大鶴は所属事務所を通じて「私がまだ十代だったとき、いつも父は、三度の飯のように芝居をし続けたいと言っていました。最後まで芝居を愛して、芝居に愛された、最高に幸せな人生だったと思います」とコメントしていた。

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