デビュー直前にメンバー事故死のカントリー娘。 直後の取材攻勢に耐えられず脱退した小林梓の思い

アイドル集団・ハロー!プロジェクトに所属するカントリー・ガールズ(活動休止中)。元のユニット名はカントリー娘。だった。1999年に戸田鈴音、柳原尋美、小林梓の3人で結成。だが、デビュー直前に柳原さんが交通事故で亡くなり、小林は心労でグループを離れた。あれから25年。ソロ歌手として活動を再開した小林が、当時の思い、これまでの歩みをENCOUNTに語った。

大人の女性になった小林梓【写真:本人提供】
大人の女性になった小林梓【写真:本人提供】

4年間引きこもり…毎年命日に墓参り「家族のように思っているから」

 アイドル集団・ハロー!プロジェクトに所属するカントリー・ガールズ(活動休止中)。元のユニット名はカントリー娘。だった。1999年に戸田鈴音、柳原尋美、小林梓の3人で結成。だが、デビュー直前に柳原さんが交通事故で亡くなり、小林は心労でグループを離れた。あれから25年。ソロ歌手として活動を再開した小林が、当時の思い、これまでの歩みをENCOUNTに語った。(取材・文=白川ちひろ)

 小林は大人の女性になっていた。落ち着いた口調で、カントリー娘。に加入のきっかけから振り返った。

「たまたまテレビでオーディション番組を見ていたら、牧場で働きながらアイドル活動ができるというテロップが目に飛び込んできたんです。ちょうどそのとき、馬が出てくる映画『モンタナの風に抱かれて』にハマっていたので、『馬に触ってみたいな』という気持ちでオーディションに応募しました。その前から女優やグラビアのお仕事はしていましたけど、歌手になりたい気持ちも強く、このオーディションは私にとってタイミングがピッタリでした」

 テレビ東京系『アイドルをさがせ!』で募集し、タレントの田中義剛が発案した「半農半芸アイドル」がコンセプトのオーディション。応募総数は1230人で、審査は特殊なものだった。

「オーディションはプロデュースを務める田中さんが経営する牧場で行われました。普通のアイドルオーディションと違って、ダンス、歌に加えて乗馬、酪農、牛の世話、ペンキ塗りと今では考えられない内容でした。田中さんが乗馬の手本を見せてくださり、『君たちもやってごらん』と言われ、大きな馬に乗せられたのにはビックリでした。降りる時に落馬する子もいたりで、私も未経験だったのでうまく乗りこなせませんでした」

 だが、小林は最終選考の9人に残り、牧場での実習を経てメンバー入りした。

「スタッフの方が突然、自宅に来られて『ちょっとお部屋を取材させてくださいね』と。オーディション期間中はずっとカメラに追われていたので、『完全に取材だ』と思ってドアを開けたら、突然、『合格です』と言われました。モーニング娘。さんが8人体制になり、世間から新グループも注目されるタイミングでデビューが決まり、何だか夢のようでした」

 グループの方向性は「バラエティー担当で行こう!」で決まっていた。

「『旅番組でフランスに行ってチーズを作る』とか、『料理番組で得意料理を披露しよう』とか、『ぶしのきくアイドルを作りたい』という田中さんのプランを聞いて、当時はアイドルがバラエティーに出る時代ではなかったので、この提案は衝撃的でした。ですが、しっかりと方向性が決まっていたので、不安はなかったです。私は酪農と搾乳の担当だったので、田中さんから分厚い参考書を渡されて教え込まれたこともありました。普通の会話中に抜き打ちで質問をぶつけられたりして、それに答えられなかったら、『もうちょっと、勉強してきてね』と言われたり。厳しくも優しい方でした」

 小林はリーダーになり、CDデビューは99年7月23日に決定。だが、その直前の同16日に柳原さんが交通事故で亡くなった。

「当時、メンバー3人で田中さんが経営する花畑牧場で従業員として働きながら、レッスンを受けていました。事故が起きた日は、牧場の仕事が終わった後、メンバー全員でダンスレッスンに行く予定でした。彼女は田中さんが経営するレストランで働いていて、牧場にいる私たちを車で迎えに来てくれて、一緒に稽古場に行く予定だったんですが、30分くらい待っていても来なくて……。田中さんの奥さまが心配して様子を見に行ったところ、事故を起こしていることに気づいたんです。報告を受けてすぐに病院に行きましたが、スタッフの方から彼女が亡くなられたことを聞き、現実を受け止められませんでした。数時間前まで一緒にいた彼女が、さっきまで着ていた洋服が血まみれで待合室に置かれていて……。私たちは涙が止まりませんでした」

 病院には取材陣が集まり、矢継ぎ早に質問をぶつけてきた。小林のメンタルは限界に達した。

「本当につらい気持ちになりました。事故の前日、彼女が『私、家族がいて、優しいメンバーがいて、デビューも決まっていて……今、本当に幸せ!』と目を輝かせて話していたんです。デビュー数日前の幸せの絶頂で、まさかあんなに痛ましい事故が起きるなんて……。グループは解散の予定でしたが、彼女のご両親からは『名前だけでも残してほしい』『活動を続けてほしい』と言われました。事務所の方と相談し、残った2人でデビューすることにはなりました。ただ、私はあの質問攻めで精神的に疲れてしまい、その数か月後に脱退することを決めました。彼女のご両親はずっと私を心配してくださっていたのですが……」

グループ脱退後を振り返った小林梓【写真:本人提供】
グループ脱退後を振り返った小林梓【写真:本人提供】

俳優で活動再開→休業→ソロ歌手に「亡くなった父もきっかけでした」

 グループから離れた後は、ひたすら自宅で過ごす日々だったという。

「脱退して芸能界を離れてからは、顔も知られているのでアルバイトもできず、3年ほど家に引きこもっていました。そんな中で、知り合いの芸能事務所の社長さんが女優としてスカウトしてくださいました。私は『もう、芸能の仕事はしません』ときっぱりとお断りしました」

 だが、社長はあきらめなかった。そして、小林を立ち直らせる言葉を掛けてくれた。

「社長さんは1年ほど家に通って説得してくだり、『亡くなった彼女の代わりは誰がするの。彼女の思いを継いであげる人は小林の他に誰がいるの』と言ってくださいました。目が覚めるような気持ちになり、しばらく考えて復帰を決めました」

 活動を再開した後は、TBS系の昼ドラマ『湯けむりウォーズ』(2005年)で悪女役を演じるなどした。その後、歌手としても活動した。そして、18年1月28日のワンマンライブを最後に再び活動を休止した。

「理由は、あらためて本当にやりたいことを見つめ直すためでした。アパレルについて学んだり、ドール制作など好きなことに没頭していましたが、昨年、私の芸能活動を支えてくださっていた音楽プロデューサーの方が、ご病気で亡くなってしまいました。私が活動を休止してからもずっと気にかけてくださり、『活動を再開したら新曲を作ろう』と言ってくだっていたので、本当にショックでした。いろいろな思いが頭を駆け巡りましたが、私の中に『また歌いたい』という気持ちが芽生え、昨年12月に歌手として再スタートを切りました」

 12月15日に約5年ぶりのシングルCD『夢恋絆』をリリース。翌16日には、ワンマンライブを開催した。

「実は、私の芸能活動を一番応援してくれていた父が昨年に亡くなってしまったのです。亡くなる前、父は最後に『生まれ変わっても、また娘として生まれてきてほしい』と言ってくれました。『夢恋絆』はその言葉を基に作詞しました。父も活動再開のきっかけを作ってくれました」

 柳原さんが亡くなって25年。小林は今も彼女の命日7月16日には、千葉県内にある柳原さんの墓に参っている。その理由を聞くと、即答した。

「今でも家族のように思っているからです。同じ時間を共有していたので」

 小林は、柳原さんの事故後、1人でカントリー娘。に残った戸田さん(02年10月に卒業)とも交流を続けている。

「会っても友達とは違うし、仕事仲間でもないし、不思議な感覚です。『ファミリー』って言葉が一番しっくりくるかもしれないです。北海道は夢をかなえた思い出の地だし、つらいときも支えてくれた牧場の仲間がいて、今でも応援してくれています。北海道に行けば必ず会うほど、みんな仲良しです。恩返しをしたい気持ちもあります。今後はソロになって初めて北海道でのライブも予定しています。サポートメンバーを連れて行きます」

 柳原さん、戸田さん、音楽プロデューサー、父親の願いも胸に、小林はこれから「歌」で生きていく。

□小林梓(こばやし・あずさ)1月30日、東京都生まれ。15歳の時に原宿でスカウトされ、芸能界デビュー。1999年、テレビ東京の番組企画で行われたカントリー娘。のメンバー募集オーディションを受けて合格。戸田鈴音、柳原尋美とカントリー娘。を結成した。初代リーダーにも選ばれ、同年7月23日には、『二人の北海道』でCDデビューの予定だったが、直前の同16日に柳原さんが交通事故死。小林はその後、グループを脱退。芸能界も引退状態だったが、2004年から活動を再開。現在はソロ歌手として活動。資格は小型船舶操縦1級。157センチ。血液型AB。

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