戦火から逃れたウクライナ人が日本で起業 異国で奮闘するニキータ・ショロム氏の決意「ここで諦めたら負け犬に」

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まってから丸2年がたった。いまだ終息の見えぬ情勢が続く中、戦火から逃れるために他国へ避難した人もいる。24歳の青年、ニキータ・ショロム氏もその1人だ。ニキータ氏は2022年4月に来日、母国で展開するも志半ばで断念を余儀なくされたマスク事業を異国の地でスタートさせた。

2022年4月に来日したニキータ氏【写真:ENCOUNT編集部】
2022年4月に来日したニキータ氏【写真:ENCOUNT編集部】

事業開始後にロシアによる軍事侵攻…「全てがそこで止まった」

 ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まってから丸2年がたった。いまだ終息の見えぬ情勢が続く中、戦火から逃れるために他国へ避難した人もいる。24歳の青年、ニキータ・ショロム氏もその1人だ。ニキータ氏は2022年4月に来日、母国で展開するも志半ばで断念を余儀なくされたマスク事業を異国の地でスタートさせた。(取材・文=中村彰洋)

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 ニキータ氏が日本で挑戦したのは独自形状マスク「NASK」(ナスク)の販売だった。「NASK」とは、折り紙のような独特なフォルムで耳ゴムのない装着方式を実現させたマスク。快適な着用感やデザイン性が特徴の新時代のアクセサリーだ。1月17日にようやく日本での販売がスタートしたが、そこに至るまではたくさんの苦難があった。

 ニキータ氏が生まれたのはウクライナのチェルニーヒウ。ロシアやベラルーシとの国境付近の都市だ。幼少期からものづくりが好きな少年で、次第に物質科学に興味を抱いていった。16年にはウクライナ国立科学アカデミー(物質科学における革新部門)で3位を受賞し、それらの実績が評価されたことで、高校卒業後には英国のケンブリッジ大学に留学した。

「勉強が好きというよりも開発することが好きでした」とニキータ氏。しかし、「科学者になりたかったが、自分には才能が足りなかった」とその道を諦め、19年には米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に転校した。そこでは、定量分析などを学んでいたが、そのタイミングで新型コロナのパンデミックが世界を襲った。

 帰国を余儀なくされ、ロックダウンとなった母国で落ち込む中、「コンプライアント・メカニズム」という考え方と出会い、新型マスクの開発を思いついた。折りたたみ式の「NASK」は米国の警察官が携帯していた蛇腹式の盾から着想を得たものだった。

 起業を考えていたわけではなかったが、アイデアに突き動かされる形で、試行錯誤をスタートさせた。起業経験もなければ、開発費もなかったが、地元の商工会議所との話し合いを重ね、協力会社を見つけ、商品化へと本格的に動き始めた。

「とにかく1年目はどういった機械を作れば、折り紙のようなシステムを構築できるかに苦労しました。折り紙は手で作るからこそできるものだったので、機械化が非常に難しく、1番大変でしたね」

独自形状マスク「NASK」の販売は簡単ではなかった【写真:ENCOUNT編集部】
独自形状マスク「NASK」の販売は簡単ではなかった【写真:ENCOUNT編集部】

交渉しては断られる日々「毎日朝起きることが怖かった」

 苦労の末に、製品化に成功させ、21年にはオンライン販売がスタートした。TikTokで商品動画が500万回再生されるなど、大バズり。売上も伸び始め、事業拡大は目前だと思われた矢先にロシアによる軍事侵攻が始まった。「全てがそこで止まった」と絶望だった当時を振り返った。

 まだ学生の立場だったニキータ氏は、起業家としての実績などもあったため、外国への避難が許されていた。避難先の国の候補はいくつかあったが、日本を選んだのは、志半ばだったマスク事業をどうにかして成功させたいという思いからだった。

「他の国も選択肢にはありましたが、日本がマスク人口の多い国だったことは大きな理由の1つでした。UCLA留学時代の日本人の友人から『戦争だけど、大丈夫か』と心配の電話をもらっていたことなど、さまざまな要素が重なったことで決断しました」

 日本へと舞台を移したが、ここでも苦労の連続だった。「NASK」のアイデアを企業に提供し、売上からマージンをもらう形での契約を目指し、奔走した。しかし、交渉しては断られるを繰り返す日々だった。

「正直、毎日諦めたくなりました。毎日朝起きることが怖かったです。でも、ウクライナの厳しい状況に比べれば、私は恵まれています。ここで諦めたら負け犬になってしまうと思いながら、どうにか自身を鼓舞してきました」

 約1年もの間、断られ続け、最終的には「自分で作るしかない」と決意。幸運にも資金を捻出してくれる米国の投資家にも出会えた。生産の機械はまた一から作り直すこととなったが、「改善点や問題点がいっぱいあったので、それを改善して展開するようにしました。技術の詰まったデータを持ってきていたので、それをもとにリプロデュースしました」と前向きに捉えていた。

 不幸中の幸いにも母国に残る家族は無事に暮らしている。「毎日電話で『I love you』を伝えています。次の日にも連絡が取れるかすらも分からないですからね」と死と隣り合わせな母国の現状を思慮した。

 23年には、日本でイハヴィール社を設立し、ウクライナ避難民としては異例の難民ビザから経営管理ビザへの在留資格変更を行った。そして、24年1月17日についに「NASK」の発売へとこぎ着けた。

「日ウクライナ経済復興推進会議」にも参加「両国の橋渡し役を担いたい」

 日本で暮らす中で、日本人の美徳にも触れてきた。「日本の方は、細やかなところまで気が行き届いてすごいです。そういった部分に誇りを持っていることも素晴らしいですね」。

 一方で、日本人ならではの“クローズド”な社会には、非常に苦労したという。「失礼な言い方になってしまいますが、日本はすごく閉ざされた社会だなと思いました。観光客にはウェルカムな姿勢をとっていますが、ビジネスとなるとあまり協力的ではありません。特に避難民である私が会社を作ろうとなると、法的な手続き面などが、ものすごく細かく、非常に複雑で大変でした」と直面した壁について口にした。

 また、自身も24歳という“若者”に該当するが、「日本の若い人たちには、もっと先陣を切って、イニシアティブを取っていってほしいと思います。縦社会の国ということは理解していますが、若い人たちが未来を担っているということを考えると、もっとチャレンジングな姿勢を見てみたいなと思いますね」と自身の経験を重ねながら、期待を寄せた。

 2月19日には東京で「日ウクライナ経済復興推進会議」が開催されたが、ニキータ氏も日本を知る起業家の一人として、これに参加した。「NASKがなければ、ただの24歳の若造で相手にされなかったと思います」と笑う。

「今回の復興会議には、ITや建築業といった大会社も参加しています。そういった方々と対話できたことは良い経験でした。約2年間、日本の文化を肌で感じて学んでいるので、今後も両国の橋渡し役を担いたいです。

 日本は大国ではありますが、経済的には縮小しているので、これから外に出ていかなければなりません。一方でウクライナは、戦争が終われば、他国の援助が必要となり、膨大な需要が起こります。そういったときに、両国を結びつけるために、私が日本にいることはすごく重要なことだと思っています。役に立てることがあれば、光栄なことです」

 今後は、「NASK」のみならず、国際貿易などの事業にも挑戦していく。ウクライナと日本、世界を視野に入れながら、挑戦を続けていく。

「海外生活が長かったので、ウクライナに帰りたいというこだわりはありません。とにかく僕を必要としてくれる場所で、少しでも社会や世界に貢献していきたいです」

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