【週末は女子プロレス♯138】井上貴子、“アイドルレスラー”を決意した瞬間「この人たちを裏切るわけにはいかない」

1988年に全日本女子プロレスでデビューした井上貴子。昨年11月には東京ドームシティホールにてデビュー35周年記念大会を開催した。女子プロ界の重鎮や、貴子にあこがれてプロレスラーになった後輩に囲まれ、さらには芸能界での人脈からSHOW―YAの寺田恵子、松本伊代がリングに登場し、縁の深い人たちからのビデオメッセージも届けられた。また、貴子の所属するLLPW-Xから新人2人がデビュー。貴子の世界観が全開の記念大会だったと言えるだろう。その中心にあるのは、現在も衰えることのないアイドルレスラーとしての輝き。アイドルレスラーとして確固たる地位を築いた貴子に過去、現在、そして未来について聞いてみた。

アイドルレスラーとして名をはせた井上貴子【写真:新井宏】
アイドルレスラーとして名をはせた井上貴子【写真:新井宏】

プロレスとの出会いは小学生

 1988年に全日本女子プロレスでデビューした井上貴子。昨年11月には東京ドームシティホールにてデビュー35周年記念大会を開催した。女子プロ界の重鎮や、貴子にあこがれてプロレスラーになった後輩に囲まれ、さらには芸能界での人脈からSHOW―YAの寺田恵子、松本伊代がリングに登場し、縁の深い人たちからのビデオメッセージも届けられた。また、貴子の所属するLLPW-Xから新人2人がデビュー。貴子の世界観が全開の記念大会だったと言えるだろう。その中心にあるのは、現在も衰えることのないアイドルレスラーとしての輝き。アイドルレスラーとして確固たる地位を築いた貴子に過去、現在、そして未来について聞いてみた。

 プロレスとの出会いは小学生の頃、格闘技好きの父とともに見たテレビでのビューティー・ペアだった。もちろん一視聴者として見ていただけで、将来自分がプロレスラーになるとは思いもしなかった。彼女にとってプロレスとは「選ばれた特別な人しかできない」遠い遠い世界。そんななかでプロレス熱が高まったのは、ジャガー横田の試合だった。

「ジャガーさんがラ・ギャラクティカに負けて丸坊主になったんですよ。その後、リベンジすると言ってすごいトレーニングをしている姿が放送されたんですよね。そこからジャガーさんのファンになって、応援するようになりました」

 熱烈にジャガーを応援する一方で、父は立野紀代のファンでもあった。その立野を見て、貴子は衝撃を受けたという。

「立野さんやミミ萩原さんのようなスリムな人が闘ってる。これっていいのかなと思っているうちに、ノリさんも応援するようになったんです。そのうち、テレビで新人募集のテロップが出て、選ばれなくても自分からプロレスラー目指して挑戦できると知ったんですよね」

 当時の貴子は中学2年生。募集は15歳から18歳だったため、1年間待つことにした。が、ちょうどそのときクラッシュギャルズの大ブームが到来。中3で受けたオーディションにはレスラー志望者が殺到した。

「書類では一応通ったんですけど、オーディションで敗北しました(笑)。そこから慌てて受験勉強ですよ。というのも、中2の頃から進路は女子プロレスと決めていて、高校に行く気はまったくなく、プロレスラーになると言い張っていたんですよね。なので、そこから3か月間猛勉強。なんとか頑張って合格しました(笑)」

 とはいえ、レスラーへの道はあきらめてはいない。ちょうど全女のスタッフから練習生になることを勧められた。自費で全女の道場に通い、オーディションに備えるのだ。さらに貴子は、合格するためには何か別のものが必要と感じ、アマレスも始めた。高校生活と練習、二足のわらじでレスラーになる夢を求めたのである。

 その頃、友人が貴子を数々のオーディションに参加させていた。モデルや歌手、そのなかには当時一世を風靡していたおニャン子クラブのオーディションもあった。写真で通過し、歌を録音したデモテープも通った。そしてスタジオ面接というところで、全女のオーディションとバッティング。しかし貴子は迷わずプロレスを選択した。これもまた落ちてしまうのだけれど……。

 結局、合格したのは高校3年生、最後のチャレンジだった。2次募集も含め通算で5度目の挑戦。その頃はすでに開き直った状態でオーディションに臨んだのだが、ついに合格。

「なぜか後ろを向いて質問に答えさせられました。『彼氏がいたら別れてこいよ』と言われて、『いません!』って返事して(笑)」

想像以上の厳しさ…現代なら完全にアウトの世界

 晴れて全女の練習生となった貴子。ジム生の頃から厳しさは聞いていため、ある程度の心の準備はしていたつもりだが、実際に入ってみると想像以上の厳しさが待っていた。現代なら完全にアウトの世界だ。

「新人は奴隷。こんなところではやっていけないと思い、入って2日目で荷物をまとめたんですけど、同期の吉田万里子に止められて、とりあえず残りました」

 やっとの思いでつかんだデビューへの道。オーディション時にはこれが最後としながらも落ちてしまった仲間がたくさんいる。その思いも背負いながら覚悟を決めたこともあり、貴子は人間関係に悩みながらも練習に明け暮れた。むしろ、1日8時間の練習も時間が来たら終わるものだからと納得できた。あこがれのジャガーから指導を受け、父娘でファンだった立野の付き人になった。立野は貴子が自分のファンと知っていたため、あえて贔屓などせずに人前では厳しくあたることもあった。が、オフタイムにはプライベートで親交を深めた。そして88年10月10日、同期の井上京子を相手にデビュー戦を飾ると。90年2月には「奇跡の扉」で歌手デビュー。アイドルレスラーとして脚光を浴びる。リング上で歌を披露するという、全女の“伝統”に彼女も乗ったのだ。

「いずれは私も歌を出したい、しかも一人でと思っていたからうれしかったんですけど、その頃はまだ新人だったので、抵抗がありましたね。(プロレスで)人気が出たら歌を出すのが普通じゃないですか。それなのにいきなりCD、写真集、ビデオって、順番が違うなと思って」

 しかし、売り出しのために大勢のスタッフが動く姿を見て、貴子は感銘を受けた。

「まだ売れてもいないこんな小娘のために働いてくれている。だったらこの人たちを裏切るわけにはいかないと思ったんですよね。そこで自分はアイドルレスラーでやっていくんだと決意しました。実際には、いろいろ言われるだろうなと思ってたことの100倍以上ありましたけど(苦笑)。それでも売れてしまえば文句ないじゃないですか。もう何も言われないようにするしかないと開き直って頑張りましたね」

 アイドルレスラーとして結果を出した貴子は、同期の京子や吉田がプロレスで結果を出すなかで、自身のプロレスに悩み引退を考えていた。実際、引退を申し出たのだが……。

「会長にもうそろそろやめようと思いますと言ったら、『わかった。わかったけど、その前にこれに行ってくれ』と言われたんですよね」

 それは、堀田祐美子と組んでJWPの大田区大会に乗り込み、尾崎魔弓&福岡晶組と対戦するというカードだった。全女とJWPの対抗戦である。「もう決まってるから」と言われた貴子は、渋々その要請に応じることに。

「試合前、堀田さんから『今日はうるさい先輩もいないから好きなようにやればいいよ。私も楽しむから』と言われたんですね。そしたら自分も知らない自分が出せた感じで。完全アウェーだったのでちょっと意地悪なファイトみたいなのが出て、自分でもそれが気持ちよかった。アイドルで抑えてきた部分もあったけど、こういうこともできるんだなって。それから、まわりからもけっこう評価されるようになったんですよ」

 団体対抗戦が本格化し、貴子は「対抗戦女」と呼ばれるようになる。アイドルレスラーでいて、小憎らしいヒールファイトもこなす。最初はなめていたという他団体との対戦も、予想以上の実力を知りリスペクトに転じた。全女の道場でともに練習をした尾﨑が他団体で活躍していることも大きな刺激になったようだ。

「JWPの大田区に出たあと、やめるのをやめますって言いに行きましたね(笑)」

 以来、貴子は戦場を変えながらも現役であり続けた。しかもアイドルレスラーとしてのイメージと美貌をキープしつつ、35年のキャリアを積み重ねている。対抗戦以後プロレスをやめようと考えたことは一度もなく、だからこそ自分を磨くためのトレーニングを欠かさない。一時ヒザの状態が悪いときもあったが、ジャガーの提言から35周年の節目に京子とのダブル井上でベルトに挑戦することを決意し、心技体を高めていった。これを見た神取忍が35周年記念大会の開催を勧め、TDCホールで実現。貴子はディアナのWWWD世界タッグ王者として、記念大会に臨めたのである。

 では、今後について、貴子はどんなビジョンを描いているのだろうか。

「記念大会とかあれば別ですけど、これからは、自分が主役というのはほぼなくていいのかなと思っています。TDCで新人(NORI&キャサリン)がデビューして、いま中学生から大学生までの練習生が4人いるんですね。彼女たちを丁寧に育てていきたいので、そっち(後進の育成)に集中したい気持ちがありますね。あと、今年は神取さんが還暦なので、何かやらないといけないと思ってるし、その大会に向けて自分も鍛えながら、若手を露出させていきたいなと思っています」
(文中敬称略)

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