伝説のバンド、サディスティック・ミカ・バンドとは? 元メンバーが明かす魅力「世界にも似たバンドは一つもない」

サディスティック・ミカ・バンド。故・加藤和彦さん、故・高橋幸宏さん、ミカ、つのだ☆ひろ(ドラム)、高中正義らが名を連ねた伝説のバンドで、今年は日本のロックの名盤と呼ばれる1974年のアルバム『黒船』発売から50年を迎える。初代ベーシストの小原礼は黄金期のメンバーで、同バンドの特徴を「オリエンタルで不思議な世界観を持っていた」と表現した。脱退後は渡米してキャリアを積んだ72歳が、ミカバンドと自身の歩みを語った。

サディスティックミカバンドが1971年に発売した『黒船』【写真:(C)ユニバーサルミュージック】
サディスティックミカバンドが1971年に発売した『黒船』【写真:(C)ユニバーサルミュージック】

ベーシスト小原礼が語ったミカバンドとロックな半生

 サディスティック・ミカ・バンド。故・加藤和彦さん、故・高橋幸宏さん、ミカ、つのだ☆ひろ(ドラム)、高中正義らが名を連ねた伝説のバンドで、今年は日本のロックの名盤と呼ばれる1974年のアルバム『黒船』発売から50年を迎える。初代ベーシストの小原礼は黄金期のメンバーで、同バンドの特徴を「オリエンタルで不思議な世界観を持っていた」と表現した。脱退後は渡米してキャリアを積んだ72歳が、ミカバンドと自身の歩みを語った。(取材・文=福嶋剛)

 サディスティック・ミカ・バンドとは、どんなバンドだったのか。小原が分かりやすく説明した。

「日本の音楽、グラムロック、ソウル、ウェストコースト……メンバーはそれぞれいろんなジャンルの音楽が好きだったから、『それを掛け合わせたらどんなものが生まれるんだろう』と考えていました。そんな好奇心の塊みたいな遊び心が、ミカバンドの音楽につながっていたと思います。ミカという強烈な個性を持ったボーカリストもいて、まるで多国籍料理みたいなオリエンタルで不思議な世界観を持っていました。日本はもちろん、世界にも似たようなバンドは1つもいないという珍しいバンドでしたね」

 ミカバンドは71年、加藤さん(ボーカル、ギター)、ミカ(ボーカル)、つのだ☆ひろ(ドラム)で結成され、後に高中(ギター)が加入。翌年、つのだがバンドを離れた。

「トノバン(加藤さん)とは初めて会った時から気が合う仲間でね。僕はまだミカ・バンドに参加していなかったんだけど、『ドラム(つのだ☆ひろ)が抜けるから誰が知らない?』って相談されたんです。僕には中学校から一緒の林立夫と高校の頃に知り合った幸宏という2人のドラマーがいて、林はアメリカっぽいサウンドが得意で、幸宏は当時のロンドンとかぶっ飛んだ音楽も好きだったから、『幸宏っていうのがいて、すごく音楽の趣味も合うと思うよ』と推薦したんです」

 その後、高橋さんもミカバンドに加わった。

「ファーストアルバムを作る前にメンバーと1か月くらいロンドンに行っていろんなバンドを見たり、ファッションにも刺激を受けて帰ってきました。覚えているのは幸宏と僕でレコード屋に行った時、『レガエ』と英語で書かれたジャンルのレコードを山ほど持ち帰って東芝のスタジオで聴いていたんです。そしたら、周りは不思議な顔をしているから幸宏と『きっとそのうちに分かるよ』と言ってました。2人の中では、日本に最初にレゲエを持ち込んだのは俺たちだと思っていました。ファーストアルバムに収録した『恋のミルキー・ウェイ』という曲は、日本で最初のレゲエっぽい曲だったんじゃないかな」

 73年、加藤さんを中心に高橋さん、ミカ、高中、小原の第2期メンバーによってファーストアルバム『SADISTIC MIKA BAND』が完成した。

「ロンドンに影響された僕たちは『ブギーやロックンロールだけじゃない、いろんな音楽を入れよう』と話しました。ミカバンドは2枚目の『黒船』が有名だけど、あれはコンセプトアルバムだったから、みんなで好きな音楽を持ち寄って作ったファーストが『一番ミカ・バンドっぽい』と今でもそう思います」

 ファーストアルバムは、作家の今野雄二氏によって英国に渡った。

「僕が聞いた話だと、今野さんがロンドンに行っていろんな関係者にアルバムを聴かせたら『こいつらは誰だ?』って、ちょっと話題になったそうです。それをクリス(トーマス)が聞きつけたのか、誰かが彼に頼んだのかは覚えていないんだけど、とにかく彼とつながった。これが『黒船』誕生のきっかけです」

 音楽プロデューサーのクリス・トーマス氏はビートルズの『ホワイト・アルバム』(68年)でアシスタント・プロデューサーを担当したことで知られる。他にもポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、セックス・ピストルズ、U2などの作品をプロデュースした。

「クリスも僕たちもビートルズ直系だから、クリスが日本にやってきて、すぐに意気投合しました。驚いたのが今まで見たことのない斬新なレコーディング手法でした。それまでは『せーの』で一発レコーディングして上手くいった演奏を使っていたんだけど、クリスは何回も録音をさせて、『1回目の演奏のここのパートと、5回目の演奏のここのパートをつなげよう』って。2インチのテープにハサミを入れて切ってつなげていったんです。『海外ってこういうやり方なんだ』と思って驚きました。その後の日本のレコーディング手法にもつながる最初の一歩が『黒船』のレコーディングでした。よく『昔はテープを切ってつなげた』という話を聞いたことある人もいると思うけど、実際は30センチで1秒だから、それほど職人みたいな繊細な技ではなかったんです」

 メンバーに今井裕(キーボード、サックス)も加わり、日本のロック史に残る名盤『黒船』が誕生した。

「できあがってみんなで『やったぜ!』でしたよ。周りは髪の長いちょっと汚い感じの格好がイケているような時代の中で僕らはおしゃれにきめていました。トノバンがイギリスから日本に初めてPAシステムを導入して、他のバンドとは比較にならないデカい音でやっていたし、とにかく『日本初』という話題の多いバンドでしたね。でも、反応はイマイチだった。今でこそ『名盤』とか言ってもらえるけれど、当時はあんまり受けなかったと思う。客席から小石を投げられたこともあったけど、こっちとしては『良いものが作れた』という満足感があった。だから、『そのうち何とかなるんじゃない』と思っていました」

インタビューに応じた小原礼【写真:ENCOUNT編集部】
インタビューに応じた小原礼【写真:ENCOUNT編集部】

軌道に乗ったミカバンドを脱退、米国で活動、尾崎亜美と結婚

 だが、小原はバンドが軌道に乗ったタイミングで脱退した。

「25歳くらいだったかな。時代的にロックやジャズをミックスしたクロスオーバーとかフュージョンと呼んでいたジャンルが出始めて、大村憲司(ギタリスト)と一緒にやりながら、『もっと、演奏技術を磨きたい』と思うようになりました。トノバンから『もうちょっと、考え直してみない』と引き留められたんだけど、『ごめん』と言って辞めました。まあ、若気の至りでしたね」

 その後、スタジオミュージシャンとして活動していた小原は、休暇を取るために兄が住んでいた米ロサンゼルスへ向かった。

「LA(ロサンゼルス)をふらふらして日本に帰ってきたんだけど、『ずっと向こうで活動しよう』と決めました。日本に帰ってから教授(故坂本龍一さん)たちとセッションしたり、スタジオミュージシャンとして1年間やって、お金が貯まったので再びLAに行きました」

 渡米後すぐに知り合ったルームメイトやバンド仲間のつながりから、プロデューサーのロブ・フラボーニ氏に出会った。ボブ・ディラン、ザ・バンド、エリック・クラプトンといったビッグアーティストたちが使っていたスタジオ「シャングリラ」の経営者で、小原の演奏を聴いて声を掛けてきたという。

「ロブに『明日セッションがあるんだけど遊びに来なよ』と誘われて行くと、スモール・フェイセスやフェイセズにいたイアン・マクレガンとのセッションでした。1時間くらい演奏したら、『来週からレコーディングがあるから来て』と言われ、そこからシャングリラスタジオのベーシストとしてセッションやレコーディングが始まりました。ディランには会えなかったけど、ロン・ウッドとは自分が書いた曲でセッションしましたよ。基本はロックの曲が多いから譜面なんかなくて、お互いに音で合わせるというスタイルでした」

 イアン・マクレガンのつながりで、グラミー受賞アーティストのボニー・レイットによるバンドメンバーにも誘われた。そして、グリーンカード(米国永住資格カード)を取得。ボニーたちとツアーバスに揺られながら、80年代の全米を旅する生活が始まった。

「鏡で自分を見ながら、『俺はアメリカにいる外人なんだ』と思っていて、日本人という意識はなかったですね。人種差別にあったりもしたけれど、観客の反応も良かったし、楽しい思い出しかないです」

 約10年の活動を経て帰国。97年にシンガー・ソングライターの尾崎亜美と結婚した。挙式で牧師が不在のアクシデントもあったが、出席者のデーモン閣下が代役を務めた。その後、奥田民生のライブバンド・MTR&Yに参加。現在も同バンドで活動を続けている。また、高校の頃に林、鈴木茂らと組んだバンドSKYEを再始動させ、松任谷正隆を加えてメジャーデビューを果たした。

「民生とはもう20年くらい一緒にやっていてます。1年ぶりに集まっても、自然にいつもの感じに戻るので僕の拠り所みたいなものですね。SKYEは新人バンドの気分で、同い年のメンバーと楽しんでいますよ」

 今年1月、高橋さんが亡くなり、3月にはセッションを繰り広げてきた坂本さんが旅立った。

「この前、店で髪を切ってもらっていたらトノバンの『パパ・ヘミングウェイ』が流れてきたんです。その瞬間、『(アルバムに参加したメインミュージシャンの中で)生きているのは僕だけなんだ』とちょっとショックでしたね。幸宏とは頻繁にLINEのやり取りをしていたんだけど、亡くなる半年ぐらい前から既読にならなくなった。『人生100年時代』とか言われているけれど、みんな早いよね。でも、ローリング・ストーンズは80歳でアルバム出したから、『僕もあと8年くらいはいけるかな』と思って前を向いてやっていきます。『ジジイ引っ込め!』って言われても、平気な顔してやっていると思います(笑)」

□小原礼(おはら・れい)1951年11月17日、東京都生まれ。青山学院高在学中に鈴木茂、林立夫らとSKYEを結成。72年、サディスティック・ミカ・バンドにベーシストとして参加。脱退後に渡米し、イアン・マクレガンバンドに参加。これまで、ロン・ウッド、ジム・ケルトナー、ボニー・レイット、矢野顕子、尾崎亜美、屋敷豪太、奥田民生らと共演。97年、尾崎亜美と結婚。21年、SKYEでメジャーデビュー。

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