【映画とプロレス #19】仏映画「レ・ミゼラブル」から連想したアリと猪木の物語

京王プラザホテル「モハメド・アリ回顧展」(2016)の新間寿氏【写真提供:新井宏/Hiroshi Arai】
京王プラザホテル「モハメド・アリ回顧展」(2016)の新間寿氏【写真提供:新井宏/Hiroshi Arai】

「炎のファイター INOKI BOM―BA―YE」誕生のきっかけ

 ではなぜ、劇中曲が猪木に贈られることになったのか――。問題はルール変更などに端を発した猪木側とアリ側の番外戦だ。「世紀の一戦」が「世紀の凡戦」と評価されたことで、新日本プロレスは多大なるダメージを負った。当時の営業本部長・新間寿はアリのマネジャー、ハーバード・モハメッドを相手に交渉を重ねた。新間はアメリカに赴き通訳を交えながら、弁護士を外してまで真摯に向き合った。新間は仏教の例えを出しながら本心を懇々と伝えると、イスラム教ムスリムの教祖でもあるハーバードは宗教家として感じるところが多かったのか、すべてを呑み込む形で大逆転の和解に応じた。77年4月15日、アメリカにて猪木VSアリ問題は終結。終わらせたのは、“過激な仕掛け人”新間寿だった。

 しかも、それはある意味で始まりでもあった。選手間同士、両者の陣営に友情が芽生えたのだ。その年、新間は再びアメリカに呼び寄せられた。アリの映画ができたから観てほしいというのである。新間は、当時をこう振り返る。

「公開前にプレミア試写会があるからロサンゼルスに来いということだったんだ。試写室じゃなくて劇場だったね。ハーバードたちと一緒に観たんだけど、似たメロディーがいろんなところでかかるんだよ。スローバラードだったり、ピアノバージョンだったりね。なかでもインパクトがあったのが、大勢の人たちが“アーリ・ボンバイエ!頑張れアーリ!頑張れアーリ!アーリ万歳!”って応援しながら合唱する場面。そのシーンで閃いて、鑑賞後の食事会でハーバードに言ったんだよ。あのアリ・ボンバイエという曲を私にくれないかってね。そしたらハーバードは驚いて、“曲をくれとはどういうことだ?意味がわからない”と。ハーバードに頼んだのは、彼がマネジャーであるのはもちろん、それ以上の存在だったから。代理人であり支配者。そういう存在だったんだよ。だからアリはハーバードに全幅の信頼を寄せ、すべてを任せていた。その彼が“なんであの曲が必要なんだ?”と聞くから、私はこう言ったんだ。あの曲にものすごく自分は感銘を受けた、感動したと。で、アリを称えるあのシーンのアリ・ボンバイエという曲を猪木の試合の入場に使いたいと。するとハーバードは、“わかった。曲をくれとはそういうことか”と納得してくれた。ハーバードはすぐに使用の許可を出してくれたよ。担当者を呼び出すと、“あとのビジネスはオマエたちに任せるから、まずは曲の使用権利を新間にやってくれ”と言ってくれた。それを日本に持ち帰って、正式に使えるようになったんだ」

映画「アリ/ザ・グレーテスト」海外ポスター
映画「アリ/ザ・グレーテスト」海外ポスター

新間寿氏のアイデアからプロレステーマ史上最大の“ヒット曲"に

 映画は77年5月19日に公開が始まった。そして完成したのが、「炎のファイター INOKI BOM―BA―YE」だ。しかもただ流用するのではなく、新間のアイデアから“アリ”を“イノキ”に代えてみせた。ここから「炎のファイター」はプロレスファンを飛び越えあらゆる人たちに届くプロレステーマ史上最大の“ヒット曲”となったのだ。「(高校野球の)甲子園で何十年にもわたって応援歌として演奏されてるでしょ。大会全体で最も演奏される曲なんじゃないかな。また、この曲によっていろんな業界ともつながり人脈も広がった。自分って音楽的センスもあるんだなあっと、自画自賛したもんだよ(笑)」

 とはいえ、この曲の使用が決まる前、新間はあることに頭を悩ませていたという。「猪木さんに似合う入場曲はできないか」、と。新間の中には、ある候補曲があったというのだが…。(次週につづく)

 映画「レ・ミゼラブル」は「BS10 スターチャンネル」にて8月放送予定。

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