54歳・芳本美代子のアイドル時代「緊張感ゼロでした」 中山美穂らと同期で激戦も「学校の延長」

1980年代にアイドル歌手としてブレークした芳本美代子が今年、大学教授としてのキャリアをスタートした。メディア・芸術学科の教授として学生たちに演技を教えている。本田美奈子、中山美穂、斉藤由貴らがデビューした1985年組で、井森美幸や森口博子と並んでバラエティー番組にも出演した。その後、俳優に転向。舞台、ドラマに出演しながら、演出家として数多くの舞台作を手掛けてきた。結婚、子育て、離婚、再婚も経て54歳になった「みっちょん」。その半生を本人が語った。「前編」はアイドル時代。

芳本美代子がアイドル時代を振り返る【写真:山口比佐夫】
芳本美代子がアイドル時代を振り返る【写真:山口比佐夫】

激動の日々を乗り越えた自分への感謝「よく頑張ったね」

 1980年代にアイドル歌手としてブレークした芳本美代子が今年、大学教授としてのキャリアをスタートした。メディア・芸術学科の教授として学生たちに演技を教えている。本田美奈子、中山美穂、斉藤由貴らがデビューした1985年組で、井森美幸や森口博子と並んでバラエティー番組にも出演した。その後、俳優に転向。舞台、ドラマに出演しながら、演出家として数多くの舞台作を手掛けてきた。結婚、子育て、離婚、再婚も経て54歳になった「みっちょん」。その半生を本人が語った。「前編」はアイドル時代。(構成・文=福嶋剛)

 私は3姉妹の次女として山口県で生まれました。両親は歌が好きだったので、自然と私も歌が好きになったのだと思います。幼稚園の頃、街の『ちびっこのど自慢』に出た写真が残っていました。小学校3年生のときには、山口から広島に引っ越して友達もいなかったので父親が、「じゃあ、ちょっと出てみるか」と言って、私と姉が、『全日本選抜ちびっこものまね歌合戦』の広島大会に出場。私は地区優勝しました。

 憧れだった東京に初めて行き、本大会では、タモリさんのイグアナの形態模写の芸を生で見ました。大会に出場したことがきっかけで、広島にあった芸能事務所のレッスンスタジオに通い始めましたが、再び父が転勤。5年生のときに山口に戻りました。

 中学2年のとき、今度は友達に誘われて久しぶりにコンテスト(『第5回福岡音楽祭・新人登竜門ビッグコンテスト』)に出ました。優勝したらデビューが確約されていて、『もしかしたら(松田)聖子さんに会えるかも』なんてよこしまな気持ちもありました。結果は決勝止まりでしたが、テイチクレコードの福岡営業所の方から声が掛かりました。スカウトというより、今で言うところの「育成枠」みたいな感じだったと思います。そこから福岡にあった平尾昌晃先生のレッスン教室に通いながら、レコード会社の人と東京の事務所を探しました。すぐに芸映にお世話になることが決まり、高校1年の夏に東京に出てきました。

 先輩の石川秀美さんの妹分として、『白いバスケット・シューズ』でデビューしました。秀美さんの妹分なのでスポーティーなイメージだったのですが、実際は運動が本当に苦手でした。中学のバスケットボール部でもずっと補欠でした(笑)。

 デビューシングルを出す際にレコード会社の人が、「芳本美代子だとちょっと硬い印象だし、『よしもと』は吉本興業さんと被ってしまうから」と言って、「みっちょん」というニックネームを付けていただきました。今も「みっちょん」とみなさんに呼んでいただけるので、愛称はすごく大切だなって思います。

 その頃は同期や同級生も多くて、水泳大会や夏祭り、雪まつりと新人が集められてステージで歌うこともよくありました。「学校の延長」みたいな感じでしたね。井森美幸ちゃん、森口博子ちゃん、松本典子ちゃん、橋本美加子ちゃん、佐野量子ちゃんとは番組も一緒でしたね。他には斉藤由貴ちゃん、南野陽子ちゃん、大西結花ちゃん、めちゃくちゃ歌に力を注いでいた本田美奈子ちゃん。後半に入ると、中山美穂ちゃんが出てきて、おニャン子クラブもいて、1つ下の浅香唯ちゃんもデビューは一緒。中村由真ちゃんは同期だけど2つ下。そんな感じで同級生と同期が複雑な関係でした。

 両親は私を応援してくれて、「適当にやって帰ってくるな」と発破を掛けてくれました。ただ、私はデビュー1、2年は何も考えていなかったかもしれません。失敗もいっぱいありましたし、しょっちゅうしかられていました。でも、歌は一生懸命やって、それ以外は緊張感ゼロでしたね(笑)。レコード会社と事務所は、1人のアイドルを必死に盛り上げて賞レースを獲りにいく時代でしたから、そんな私を見て「もっと、勝ちにいく意欲がほしい」と言われました(笑)。

 デビュー曲から2年くらいは松本隆先生に歌詞を書いていただきました。『プライベート・レッスン』『アプリコット・キッス』などです。当時は、男の子の方がちょっと子どもっぽいという感じの詞が多かったですね。きっと元気印で男子をリードするみたいな私のイメージを先生が書いてくださったんだなって思います。

 デビューから数年は忙しい毎日でした。3か月に1枚シングルを出して、夏とクリスマスにアルバムを作っていたので、ずっとレコーディングをしていました。その中で、歌のレッスンはもちろん、ダンスやいろんな習いごとがあって、夜は学校に行って、土日は全国にキャンペーンに出かけるという日課だったので、当時のことはすごく印象が強いもの以外は覚えてないですね。

アイドル時代はドッキリにもよく引っ掛かった【写真:山口比佐夫】
アイドル時代はドッキリにもよく引っ掛かった【写真:山口比佐夫】

あの頃のみっちょんに「頑張ったね」と言ってあげたい

 キャンペーンは毎週あって、いつも週末はデパートの屋上にいた気がします。歌番組も中継が多かったですね。ハプニングもいろいろありました。全国バスツアーみたいなキャンペーンをやっていた時、北九州あたりの会場前で大きなケンカが始まってしまい、現地の音響さんが機材を壊されないようにとそそくさと撤収して、私たちも歌わずに帰りました。学園祭でも、大学の応援団と空手部のどちらがイベントを仕切るのかみたいなケンカもありましたね。

 バラエティー番組もたくさん出させていただき、ドッキリにもよく引っ掛かりました。寝起きドッキリは1度だけあって、ああいうのって意外と予感はあるんですよ。「何でこの部屋だけ内鍵が付いてないの?」とかね(笑)。でも、まだ子どもだったから「怪しいけど、間違っていたら恥ずかしい」と思いながら疲れて寝ちゃいました。他にも雑誌『小学一年生』のCM撮影と言われ、ランドセルを背負って小学生の格好をしたり、お相撲さんの格好をしてまわしを付けたり。変な格好ばかりなんだけど、本気で信じていて舞い上がっていたので、『ドッキリだ』と気付いたときには思い切りガッカリしましたね。ホント恥ずかしかったです(笑)。

 一番怖かったのは、喫茶店でマネジャーと打ち合わせをしていると、反社の方みたいな人たちがなだれ込んできて、マネジャーが人質になるというドッキリでした。マネジャーが「助けてくれ」って言うんだけど、その時点で思いっきり「変だな」って分かるんです。でも、本当だったらめちゃくちゃ怖いし、ああいう場面に出くわすと『ある程度有名になるとこういうこともあるかもしれない』とついダマされてしまうんですよね。結構、本気でした。

 そんな風にデビューして3年くらいは、休みが全然なかったので実家にも帰れませんでした。その後、ようやくお盆に帰省して、お正月は家族でハワイに行き、やっと親孝行ができました。

 この年になってアイドル時代を振り返ると、すごく客観視できていて、あの時代のみっちょんは何か自分の子どものような感じに思えてくるんです。15歳で東京に出て、しかられながらも、芸能の世界を学びながら頑張ってやっていました。20歳を過ぎると、アイドルの道が終わり、役者の道が現れました。つらいことは次の良いことにつながっているというのは、役者として歩み始めたときに痛切に感じました。何より今もこのお仕事をさせてもらえているという事実。それが全てなんでしょうね。

 あの頃のみっちょんには、「よく頑張ったね」と言ってあげたいですよ(笑)。

 次回はお芝居の道へと進んだ話、母親になった話、大学教授として学生さんに教える立場になった現在について、お話をしたいと思います。

□芳本美代子(よしもと・みよこ)1969年3月18日、山口・宇部市生まれ。83年、『第5回福岡音楽祭・新人登竜門ビッグコンテスト』の出場を機にテイチクレコードにスカウトされ、85年3月21日に『白いバスケット・シューズ』で歌手デビュー。所属事務所の先輩・石川秀美の妹分として売り出された。90年、ミュージカル『阿国』に出演。第28回ゴールデン・アロー賞・演劇新人賞を受賞。現在は俳優業の傍ら、演出も手掛けて若手育成に力を入れている。今年4月、大阪芸術大短期大学部メディア・芸術学科教授に就任。前夫との間に1女をもうけ、2016年に再婚。

大阪芸術大学短期大学部 公式HP:https://osaka-geitan.jp

次のページへ (2/2) 【写真】9歳&14歳のころの芳本美代子
1 2
あなたの“気になる”を教えてください