開発期間3年弱、修正100か所超…最高151万円の高額ゴミステーションが「ふるさと納税」で人気の理由

10月から新制度が導入されたふるさと納税で、返礼品としてはあまり見慣れないゴミステーションが話題になっている。富山県滑川市の返礼品で、高齢者でも使いやすい“横スライド式”の構造が好評。寄付金額は最低53万円からで、最高は151万円の製品まで用意されている。製造元である株式会社ナカノの中野隆志社長に開発秘話を聞いた。

「ダスポン」と中野隆志社長【写真:株式会社ナカノ提供】
「ダスポン」と中野隆志社長【写真:株式会社ナカノ提供】

独立のきっかけは上司からの一言

 10月から新制度が導入されたふるさと納税で、返礼品としてはあまり見慣れないゴミステーションが話題になっている。富山県滑川市の返礼品で、高齢者でも使いやすい“横スライド式”の構造が好評。寄付金額は最低53万円からで、最高は151万円の製品まで用意されている。製造元である株式会社ナカノの中野隆志社長に開発秘話を聞いた。(取材・文=関臨)

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 同社は1967年に「中野鉄工」として創業。製缶・板金加工を始めとした金属製品加工の設計から製作・組立を主に行い、創業から現在まで富山・黒部市に本社を構えている。返礼品のゴミステーション『ダスポン』が、社内で2番目の利益を上げる柱となっている。

 設立したのは父親である先代の故・中野保夫さん。最初は吉田工業株式会社(現YKK AP株式会社)の一社員として溶接や補修など現場作業を行っていたが、24歳のときに当時の吉田工業の責任者から独立することを勧められた。結婚式の資金をすべて使い、会社立ち上げから数年間は大好きなお酒も断り、会社を興したという。

 保夫さんの情熱によってその後会社は成長を遂げ、これまでやっていなかったステンレスの加工や板金加工に進出。当時名古屋で工業系専門学校に通っていた中野社長は「そろそろ帰ってこないか」とラブコールを受けた。「本当は10年くらいは帰らないつもりだったのですが、3回も声をかけられ、最後には『もう来い』と言われて」決心した。92年のことだった。ゆくゆくは「自然とここで働くんだろう」と、父の会社を継ぐことを意識していた。

 ダスポンが生まれたきっかけは町内会から問題が寄せられたことだった。ゴミ置き場に来るカラスの悩み。1997年のことだった。「カラスに荒らされない、ずっときれいに、安全に使えるようなゴミステーションを作ってほしい」。地元の町内会長から保夫さんはそう頼まれた。会社のモットーは“言われたことをやりきる、どんなものにもチャレンジしていく”。聞いた以上、やらない選択肢はなかった。依頼を受けすぐに製作に着手。わずかな期間でダスポンの原型である1号機が出来上がった。台形の箱型で開口部が大きいことやパイプ型のデザインがおしゃれということ、また当時では珍しいオールステンレスであったことなどから人気が出た。

鉄と異なるステンレスの溶接に苦労

 しかし、製造は簡単ではなかった。当時はステンレスの加工が珍しく、方法を一から勉強した。ステンレスは溶接すると表面が壊れ、さびにくいという性質が乱れてなくなってしまう。そのため、再度その性質を戻す技術が必要になった。仕上げなどの加工方法もこれまでやってきた鉄とは全くの別物であったため、製造担当は苦労の連続。1台製作するのにかかった期間はおよそ3か月。材料単価は当時の従来の鉄製品の4~5倍もかかるなど、苦難の末に出来た逸品だった。

 いざ実際に使用され始めるとカラスへの効果はてきめん。被害が全くなくなり、住民からも好評を得た。エサが手に入らなくなったカラスが食料を求め、すべて隣町に行ってしまったことでクレームを受けたというエピソードもあるほどだ。デザイン性や抜群のカラス避け効果から瞬く間にダスポンは話題に。新聞などメディアで紹介され、富山県内の各自治体で売れるようになっていった。

 94年の入社から営業や製造を経験し、中野社長が社長に就任したのは2004年だ。その後、「ダスポン」が売り上げを伸ばしていく中、15年に全面リニューアルを決意する。中野社長がゴミを出す時にあることに気づいたのだ。「ゴミ出しの途中で近所の方とあいさつをする際、皆さんが高齢化してきていると感じました。扉を下から上へ持ち上げる従来のダスポンではゴミが出しづらいのではないかと思ったのです。また当時、少子高齢化が叫ばれていたことも要因の一つです」。2年前に亡くなった保夫さんも「そろそろ新しいものを出しても良いのではないか」と語っていたことも理由にあるという。

 どんな人にも使いやすいゴミステーションとは何か。その答えを探すべく、中野社長は知り合いが経営するごみ回収業者に社員を派遣し、ゴミステーションの現地調査を指示した。ゴミ収集車とともに1週間、毎日ゴミステーションの実情をその目で1つ1つ観察した。その数600か所以上。それぞれの特徴を並べ、分析し、問題点を徹底的に洗い出した。何度も調整を重ねた結果、1つの形にたどり着く。それが「スライド式」だった。わずかな力だけで開き、入れる人も出す人も使いやすい。そして掃除もしやすい。そんな夢のようなゴミステーションを目指した。

目指す姿は“高機能ボックス提案ナンバーワンのメーカー”

 しかし、ここでも開発は一筋縄ではいかなかった。設計通りに製作しても扉が動かない。試作を何度も作り、100か所以上の修正を施した。3年弱の期間をかけ、ようやく6号機で満足できる扉が完成した。「会社を辞めるなど社員の中には途中で開発をあきらめる者もいました。もちろんその判断にはさまざまな理由があるとは思いますが、大事なことは最後まであきらめなかった者たちがやり遂げてできた、ということです」。完成した際にいたのは中野社長と設計担当、組立担当の3人だけだった。使用者の声も上々だという。

「スライド式ダスポン」は18年にグッドデザイン賞を受賞。現在は全国販売を推し進めている。昨年12月からはふるさと納税での出品を開始。高額品にもかかわらず、これまでに10件の注文が入っている人気ぶりで、最高寄付額は120万円だという。「最初は選ばれないだろうと話していたのですが、びっくりしています」と予想以上の反響に驚いた。

 多くの困難があった中でどうしてここまで製品開発に情熱を注げるのか。「やっぱりその間もずっと重たいゴミ箱を開けている人がいる、ということですよね。生活するということはゴミが必ず出ます。ゴミ出しはわずか週2、3回、といってしまえばそれまでですが、でも日々大変じゃないですか。ゴミステーションを作っているメーカーとしては1日でも早く、楽に使えるゴミステーションを作る、という使命を感じていました」。

 製品を完成させることに闘志を燃やしてきた中野社長。これから目指していくのは“高機能ボックス提案ナンバーワンのメーカー”だ。「今はゴミステーションを中心に取り組んでいますが、身の回りの収納ボックスなど当社独自のスライド機能を組み込んだどこも作っていない『高機能ボックス』、これを提案する会社でナンバーワンになろうという大きな夢を持っています」と構想を挙げた。

 偉大な父の背中を追いかけて――。毎日のようにけんかをし、教え込まれたことは身に染みついている。「きちんとお客様と向き合う、誠意をもってやっていくこと。1回2回仕事する関係ではありませんから。逃げるな、とよく言われました。そういう部分は会社のDNAにしていきたいですね」。中野社長はそう力を込めた。

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