【週末は女子プロレス♯113】“恥ずかし固め”の大きな功績 アイドルがプロレスに入る原点に 開発された意外な理由
ルーズソックスを履いた女子高生レスラーとして90年代後半に一世を風靡、近年ではアイスリボンのスタッフとしてリングアナや後進の指導も担当していた千春が一念発起、年齢や性別にこだわらない新団体hotシュシュを旗揚げした。5月の本格スタートに合わせ参画したのが、全日本女子プロレス&NEO女子プロレスで活躍した“タムラ様”田村欣子とタニー・マウスだ。
タニー・マウスが振り返る現役時代、新団体hotシュシュに参画した理由
ルーズソックスを履いた女子高生レスラーとして90年代後半に一世を風靡(ふうび)、近年ではアイスリボンのスタッフとしてリングアナや後進の指導も担当していた千春が一念発起、年齢や性別にこだわらない新団体hotシュシュを旗揚げした。5月の本格スタートに合わせ参画したのが、全日本女子プロレス&NEO女子プロレスで活躍した“タムラ様”田村欣子とタニー・マウスだ。
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田村、タニーともに2010年12月、NEO解散とともに現役を引退。その後、田村はアロマセラピスト、タニーは鍼灸師として活動しており、元レスラーの特性も活かしTikTokやYouTube「田村様とタニー。」にそろって出演。その撮影でアイスリボン道場を訪ねた際、千春から新団体への協力を要請されたという。とくにタニーは即断、2人にとって、実に13年ぶりの業界復帰だった。
そもそもタニーが女子プロレスを知ったのは高校1年生のとき、3歳下の妹の“間違い”がきっかけだった。目的のテレビ番組がその日に限って時間枠が変更、いつもの時間帯に放送されたのが、「全日本女子プロレス中継」だったという。
「間違って女子プロが録画されてたんですよ。でも、それを見た妹がハマってしまって、あとから一緒に見ようと言われ私も録画を見ました。いままでプロレスって怖いイメージだったんだけど、井上京子さんがすごいカッコいいなと思って、こういうのもあるんだなと思いましたね。その後、妹が実際にプロレスを見たいと言い出して、中学生だったから私が付き添いで行くことになったんです」
それからというもの、学校帰りに待ち合わせをし、制服のまま会場に出かける機会が多くなった。そのうち、姉の方が「自分もプロレスをやりたい」と思うようになる。
そして、高2のときに全女のオーディションに応募。しかしなんのバックグラウンドもなかったこともあり、あっさり落ちた。すると、オーディションに受かるための練習をしなければと決意し、全女のスポーツクラブに1年間通った。そして高3で受けたオーディションに合格。高校卒業とともに、全女の練習生になったのだが…。
「上下関係がメチャメチャ厳しくて、ただただビックリしました。先輩は絶対的存在で、『ハイ』と『すいません』しか言えないんです。当時は、京子さんとタッグを組むことだけを目標にやってましたね。つらいけど、京子さんと組むまでは頑張ろうと思って」
知らない間に路線変更で改名「モチーフは『ゲゲゲの鬼太郎』のネズミ男」
タニーが本名(谷山美奈)でデビューした1994年は、女子プロレス対抗戦時代真っ只中。11月4日に初マットを踏み、同じ月の20日には東京ドーム大会が開催された。これを頂点に対抗戦ブームは下り坂となっていくのだが、とはいえ女子プロ界はまだまだ群雄割拠。彼女も他団体の同世代を意識した熱い闘いの輪に入っていった。が、本人の関知しないところで路線変更。タニー・マウスに改名、変身したのはテレビ番組の企画がきっかけだった。
「テレビで新人のキャラクターをつけようとなり、スポーツ新聞に名前が変わりますって載ったんですよ。そこで初めてタニー・マウスと知りました。なんの報告もなく、本人の知らないところで。もうビックリしましたよ。かわいいリングネーム付けたでしょみたいに言われたけど、モチーフは『ゲゲゲの鬼太郎』のネズミ男ですからね。妖怪ですよ。これはもう、イジメ。イヤでしたよ(苦笑)」
それでも京子とタッグを組むまではやめられないと、渋々新キャラクターを受け入れたタニー。するとこの頃から京子が直々にアドバイスをくれるようになった。タニー式のヘッドバット、タニバットは京子のアイデア。実際、この技をタニーが出すと客席がドッと沸いた。この反応にタニーは快感を覚えるようになっていったという。
そして、憧れの京子と組んでワンデートーナメントに参戦し、しかも優勝。涙のタニーに後楽園ホールの場内からは大コールが沸き起こった。コスチュームのしっぽは巨大化し、「ジュニアオールスター戦」でも全女代表として活躍した。が、ここからというところで足を骨折し、入院。長期欠場を強いられてしまう。
「あの年の夏、日本武道館でベテランと若手が組む『ディスカバー・ニューヒロイン・タッグトーナメント』ってあったじゃないですか。ちょうどその頃3か月入院してて、欠場していなければ京子さんと出られたと思うんですよね。しかもけっこういいところいってたんじゃないかなって。なので、すごく悔しかったのをおぼえています」
武道館2連戦でダイナマイト・関西&久住智子(日向あずみ)組がアジャ・コング&田村欣子組を破り優勝。JWPの久住や全女の田村ら、若手が大きくクローズアップされた。確かに、当時の流れからしてもタニーが同期の田村に匹敵するような活躍をした可能性は大いにあっただろう。
大きなチャンスを逃してしまったタニーだが、その後復帰。しかし対抗戦ブームも下降線を描き、全女の経営が悪化。1997年の大量離脱で、タニーも京子に追随した。新団体ネオ・レディースに参加したのだ。
「当時の社長がけっこう派手好きで、大きい会場をたくさんやりたがったんですよね。ただ実際にはガラガラで、社長が交代、NEOになったんです。NEOの甲田さんは堅実路線で、小さい会場ながらも着実にお客さんを入れていく方針になりました」
2005年に全女、GAEA JAPANが解散、女子プロ界は冬の時代を迎えることとなる。しかし、そのなかでも女子プロ界の中心としてジャンルの存続を担ってきたのが、京子、三田英津子、田村、タニーらを擁するNEOだった。その後、NEOには元JWPの宮崎有妃が合流。タニーとのNEOマシンガンズ結成は、両者のキャリアにとって、また団体の幅を広げる大きなターニングポイントとなったのだ。
「彼女は一度プロレスをやめてるんですよね。ある日偶然会って食事をしたんですよ。そのときにプロレスをやめたと聞きました。その彼女が戻ってきてくれて、しかも同じ団体。素直にうれしかったですね」
『キン肉マン』をモチーフにNEOマシンガンズを結成
最初は抗争でスタートしたタニーと宮崎の関係だが、友情をテーマに、そして『キン肉マン』をモチーフにNEOマシンガンズを結成。コミカルテイストを押し出したこのチームは、NEOのエンタメ路線の看板となっていく。その象徴的ムーブが、“恥ずかし固め”だ。
「恥ずかし固めは対アイドルで生まれたんですよ。アイドルの子を相手するのに大きな技だとケガさせちゃうから、気持ちを折って勝利するために編み出した技です。恥ずかしい思いをさせて心を折る。スポーツ新聞の一面にもなったし、やってみたら予想以上の反応がありましたね(笑)」
現役バリバリのプロレスラーがアイドルの女の子とプロレスのリングで対戦。いまでこそアイドルからレスラーに転身するケースは珍しくないものの、当時は画期的かつ衝撃的なマッチメークだった。とはいえ、素人相手の試合を凄惨(せいさん)なものにせず、エンターテインメントとして昇華させたのはNEOマシンガンズの功績。アイドルがプロレスに入ってくる流れの原点と言っても過言ではないだろう。
そして、2010年の年末にNEOは解散。ちょうど田村やタニーが引退を考えていた時期で、いい状態のうちに幕を下ろしたいという団体側の思惑と一致した。タニーは鍼灸師の資格を取り、団体の終焉(しゅうえん)とともにプロレスから身を引いた。会場に足を運ぶのは親しい選手の引退試合くらいのものだった。
「鍼灸師は患者さんの身体を診る仕事。もう必死にやってましたね。変わったこと? 朝起きて夜に寝るという、まっとうな生活になりました(笑)」
そしていま、まさかのプロレス界復帰。鍼灸師の仕事もこなしながら、現在は田村とともに、hotシュシュのスーパーバイザーとして新人選手の育成を担っている。女子だけではなく男子も。そこにはさまざまな背景を持つ人たちが集まっている。
「プロレス界とは一度お別れしたので、まさか戻ってくるとは思っていなかったですね。男女問わずの団体とは最初から聞いてました。実際に教えてみると、見本を見せたり自分ができないといけないから大変です(苦笑)。自分もこうやって教わってたんだと、教えてくれた人に感謝しましたね。教えてた人は大変だったんだなあって。
いまは自分が育てる立場。できなかったことが次の日にできたりとかすると、自分のときよりもうれしいです。最初はどうなることかと思ったけど、思ってたより入門志願者が多くてうれしいですよ。旗揚げ戦では5人がデビューできました。いま7人いて、8月にあと2人デビューする予定です。タムラ様の練習がありがたいほど厳しくて、私は話して聞かせるタイプ。指導法が異なるのがいいのかもしれません」
千春からは、「大人に夢を与える団体になりたい」という言葉を聞いた。年齢不問にしているのは、さまざまな事情であきらめた人たちが夢にもう一度チャレンジできる場を作りたかったから。もちろん、「やる気と根性さえあれば」初めての挑戦も大歓迎。それはまた、プロレス界に戻ってきたタニーにも「腐れ縁のプロレス」への再チャレンジなのだ。