68歳佐野史郎、骨髄腫、敗血症…と闘いながら音楽制作 「治療は本当に楽しくて」と言える理由

俳優で68歳の佐野史郎が5日に4年ぶりとなるアルバム、その名も『ALBUM』をリリースした。佐野自身が全11曲を作詞、作曲している。2年前に多発性骨髄腫を発症し、先日は急性腎障害で緊急入院(既に退院)。その前に行ったインタビューで、闘病を続けながらこの作品に収めておきたかったもの、現在の心境、音楽の位置付けについて聞いた。

佐野史郎が生きる希望を込めた新作『ALBUM』を発表【写真:荒川祐史】
佐野史郎が生きる希望を込めた新作『ALBUM』を発表【写真:荒川祐史】

4年ぶりアルバム『ALBUM』をリリース 全11曲を作詞、作曲

 俳優で68歳の佐野史郎が5日に4年ぶりとなるアルバム、その名も『ALBUM』をリリースした。佐野自身が全11曲を作詞、作曲している。2年前に多発性骨髄腫を発症し、先日は急性腎障害で緊急入院(既に退院)。その前に行ったインタビューで、闘病を続けながらこの作品に収めておきたかったもの、現在の心境、音楽の位置付けについて聞いた。(取材・構成=福嶋剛)

――約4年ぶりのアルバム、なぜタイトルを『ALBUM』に。

「初めはこの先の不安や絶望しかないような今の世の中の情勢がより良い状態になってくれることを願い、1曲目の『DREAM LAND』という曲名をそのままアルバムタイトルにしようと思っていました。その後、『過去、現在を振り返り、未来に起るかもしれないことを丸ごと写真のアルバムのように記録してそれを受け入れる』という意味を込めて、潔く『ALBUM』というタイトルで良いんじゃないかなと思いました」

――収録の11曲は、佐野さんの思い出が詰まっていると感じました。

「子供の頃より、2歳とか3歳くらいの頃からのことも印象に残ったことは忘れないでおこうと過去の記憶を頻繁に反芻(はんすう)する癖があったんです。曲のイントロを聴いただけで、他人とは共有できない景色、音、匂いを68歳になった今もよく思い出すんですが、今回の楽曲制作にも大きな影響を与えています」

――どんな少年時代でしたか。

「流行に左右されやすい“ミーハーな少年”でした。特撮や音楽やアートなんかも大好きで中学生になると、ラジオを聴いて自分で毎週チャートを作ったりしていました。雑誌も大好きで、大きな画用紙に自分の好きな情報を文章にまとめて、スクラップして自分だけのための雑誌を作っていましたね(笑)。編集者的な視点は小さい頃からあったのかもしれない。最先端のフレッシュなものにいつも身も心も持っていかれました」

――その中で最も影響を受けた時代は。

「中学、高校を過ごした1967年から73年です。高度経済成長期の真っただ中で学生運動、日本のロックやフォークの黎明期、アングラ文化……あの時代のあらゆる出来事が重なった6年間が、今の自分を作っていると言っても過言ではありません。ビートルズだけじゃなくて、ジミ・ヘンドリックスもT・レックスもリアルタイムでした。加藤和彦さんのザ・フォーク・クルセダーズもカッコ良いなと思いました。仲間たちと『やっぱり、ザ・ゴールデン・カップスとザ・ハプニングスフォーは本物だよな』とか『でも、やっぱりスパイダースやザ・モップスもいいぜ』とか、そんなことばかり言い合って、音楽雑誌を漁るように読んではスクラップブックを作っていました」

――そこまで音楽が好きだったのに、ミュージシャンの道を選ばなかった理由は。

「昔、加藤和彦さんに同じことを言われました。『何で初めからミュージシャンにならなかったの?』ってね。でも、音楽は根っからのリスナー気質なんですよ。遠藤賢司さんの『夜汽車のブルース』や、はっぴいえんどの『12月の雨の日』に衝撃を受けたりして、ライブハウスでもユーミンやシュガーベイブを見たりして、『とにかく自分が良いと思ったものをみんなに知ってほしい』。そんな思いの方が強かったです」

――実家の家業は島根県の医院。長男として継がず、役者の道を選んだ理由は。

「『継げなかった』『継がなかった』の両方ですね。実家は幕末から明治にかけて開業して、昔は地域に医院も少なかったですからね。地域の人に信頼されてきた町医者だったと思います。僕は長男ですが、『代々続いてきたから自分も継ぐ』という物語に対して反発心が強かったんです。親や親戚はずっと『継げ』と言ってましたけど、高校2年の時に諦めてもらいました。今は弟が医院は継いでますけど、『お墓のことは僕がやらなきゃ』と、家の物語は刷り込まれています」

――『ALBUM』の話に戻ります。今回もSKYEと組んで完成させました。SKYEのメンバーはギターがはっぴいえんどの鈴木茂さん、ベースはサディスティック・ミカ・バンドの小原礼さん、ドラムはキャラメル・ママの林立夫さん、キーボードは松任谷正隆さん。佐野さんが若い頃に好きだったミュージシャンたちとの共同作業です。

「そりゃあ、楽しかったですよ。前作はこちらからお願いしておきながら、『何で僕なんかと一緒にやってくれたんだろう』と思ってしまうくらいうれしい作業でした。同じ時代の音楽を聴いてきたので、『いちいち説明する必要がない』という感覚も大きかったんだと思います」

――レコーディングはいかがでしたか。

「ほぼ一発録りです。ご自分たちが信じてきた音楽をやり続けてきたからこその音。けれど、原点に立ち戻りながらも決してノスタルジックになりすぎないよう、せめぎ合いもありました。前作では、ライブでも一緒のステージに立たせてもらって、もう1人の自分が客席から『やばい』って言ってるようなね(笑)。何とも言えない感情が湧いてきました」

――10代の自分に伝えてあげたいという気持ちは。

「それは音楽のみならず、映画や芝居も同じです。唐十郎さんや実相寺(昭雄)監督といった思春期の頃から憧れていた特撮やアングラの巨匠たちとの出会いすべてにおいてです。本当に好きなものだけをずっとやってきたら、つながっちゃったという感じです」

「みっともないまでに長生きしたい」【写真:荒川祐史】
「みっともないまでに長生きしたい」【写真:荒川祐史】

「せっかくだから好きなことを味わうために生きていきたい」

――今作も佐野さんが作詞作曲をされていますが、前作とは明らかに違う印象を感じました。

「違います。僕の作品には失われていく風景や戻らない時間を憂う、そんな一面があって、今までは、そんな“どうにもならない絶望”が僕のエネルギーになっていました。しかし、今作は作品1つ1つに希望を込めたんです。それも根拠のないものではなく、『僕は希望を持ちたいんだ』という切実な思いをね。やっぱり、病気をして死と向き合わざるを得なかったという体験は大きかった」

――2021年に多発性骨髄腫という血液のがんであることを公表されました。継続的な治療が必要な病で完全に治癒することは難しいと言われています。

「そりゃ、最初はどう受け止めて良いのかわかりませんでしたよ。多発性骨髄腫に関わらず、がんと診断された時のショックは患者のみなさん同じだと思います。若い方が罹患なさった場合とは感じ方が違うでしょうけれど……。まあ、僕自身のことで言えば66歳で罹患したので、やっぱり、心持ちは全然違って、変な言い方だけど『もう、人生に悔いなし』。そりゃそうですよ。だって、こんなに好き勝手、夢のようなことばかりやらせてもらってきたんだから。僕の先輩方もたくさん旅立ってしまい、『自分もそろそろ順番かな』と思う気持ちが半分と『みっともないまでに長生きしたい』と思う気持ちが半分ですね。どうなるかホントに分からないけれど、全てを受け入れることしかないと思うんです」

――入院中に病室で作った曲『まどのそと』は、全くセンチメンタルな感じがしない、むしろ開き直ったようなサウンドです。

「でしょ。まさにその通りで不安な感情は全然なかったです」

――入院中、敗血症や抗がん剤治療にも耐えながら、不安な毎日が続いていたと想像しましたが。

「もちろん、体はきつかったですよ。敗血症になった時は『本当にダメかな』って。さすがに『ちょっと勘弁してくれ』って思いましたが、医療チーム一丸となって治療していただいたので、前向きで、落ちこんだりすることはなかったです。むしろ、語弊があるけれど治療は本当に楽しくてね。毎日、撮影現場にいるみたいな感じで興味が湧いてきちゃってね。まあ、少しずつ良くなっていけばいいなと思っていました。『まどのそと』は、死を意識せざるを得ない時に、『いったいこの先、自分はどうなるだろう?』って思いながら作りましたが、意外と鬱屈(うっくつ)したものにはならなかったんですよね」

――曲順や音作りにも、徹底したこだわりを感じました。

「そこは子どもの頃の思い出や俳優として学んだことも、曲作りに影響していると思います。8曲目の『彼岸花』や9曲目の『ほほえみ』はもろにニールヤングですよね(笑)。大好きなマーティンの『D-28』というアコースティックギターは僕が弾いて歌っていますが、そこに対する衒(てら)いは全くなくて、こういう音楽が好きなんだから仕方ないです」

――完成した『ALBUM』。悔いはないですか。

「時間は掛かりましたけど、悔いのない作品ができたんじゃないかな」

――生きる原動力にもなっていますか。

「もちろん。病を乗り越えて一層強く思うようになったことがあって、『人は存在しているというだけでみんな一緒だ』ということなんです。人って伝統という名の呪縛やさまざまな欲望の中で武装したり、優劣を付けたりして存在価値を確認したいのかもしれないけれど、結局、いつかは亡くなる訳だし。『本当のところは存在しているというところでは何もかも一緒じゃん』ていうね。一方で、どんなに拳を振り上げても抗えない絶望感もあるんだけど、僕自身はそんな時代の中でも、せっかくだから、好きなことを味わうために生きていきたい。それを誰かと共感し合えたら最高だなと思っています」

□佐野史郎(さの・しろう)1955年3月4日、島根・松江市出身。高校卒業後、75年、劇団シェイクスピア・シアターの創設に参加。退団後、80年、唐十郎主宰の状況劇場に入団。退団後、86年公開の『夢みるように眠りたい』で映画初主演。92年、TBS系連続ドラマ『ずっとあなたが好きだった』でマザコン男の冬彦役を演じ、脚光を浴びた。劇団退団後、バンド・タイムスリップを結成し、99年まで活動。その後もバンドを続けている。

佐野史郎レーベルHP:https://columbia.jp/artist-info/sanoshiro/

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