認知症と闘った94歳母…綾戸智恵が向き合った介護 ノーメイクにカビたハイヒール「心が自分の体よりも重たく」

ジャズシンガーの綾戸智恵が6月にデビュー25周年を迎えた。40歳でデビュー、脳梗塞で倒れた母の介護に専念するため2008年に活動を休止。認知症の母と向き合う日々を送る中では精いっぱい、家族のことに没頭した。心を取り戻すため09年に音楽活動を再開。周囲の助けもあり、21年に自身の腕の中で94歳の母を看取った。母の死後、引退も考えたが、両親が贈ってくれたピアノの音色に癒やされ奮起。再び歌い始めた綾戸は「お客さんが1人になっても、歌い続けたい」と力をみなぎらせている。

ジャズシンガーの綾戸智恵さん
ジャズシンガーの綾戸智恵さん

秋には東京と神戸で記念公演も

 ジャズシンガーの綾戸智恵が6月にデビュー25周年を迎えた。40歳でデビュー、脳梗塞で倒れた母の介護に専念するため2008年に活動を休止。認知症の母と向き合う日々を送る中では精いっぱい、家族のことに没頭した。心を取り戻すため09年に音楽活動を再開。周囲の助けもあり、21年に自身の腕の中で94歳の母をみとった。母の死後、引退も考えたが、両親が贈ってくれたピアノの音色に癒やされ奮起。再び歌い始めた綾戸は「お客さんが1人になっても、歌い続けたい」と力をみなぎらせている。(取材・文=西村綾乃)

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 綾戸を初めて取材したのは歌手デビュー10年を迎えた08年。07年から節目を祝うツアーを展開していた綾戸は、04年に脳梗塞で倒れ認知症を発症していた母を伴い全国を巡っていた。

「『おぎゃあ』と生まれたら、死ぬまでがワンセット。母を放っておくわけにいかないし、介護施設についてよく分からなかったから、連れて行こかって。当時は年に100本のライブをして、2年先までスケジュールが決まっていましたからね。新幹線であっちこっち往来して、歌っている間は、楽屋でスタッフが見ていてくれました。家に帰ったら食べ盛りの10代の息子が待っているでしょう。夜食も食べさせなきゃいけないから、朝から晩まで予定がビッチリ詰まっていました。両立させることは難しい。ほんなら、音楽を止めようって決めたんです」

 介護に専念するため、08年7月に東京国際フォーラムで開いたコンサートを最後に活動を休止。この日のMCでは「引退はしません。母の介護と、少し家のことをさせてもらって、またみなさんが呼んでくれるなら歌いたい」と思いを明かしていた。

「朝は8時前に起きて、午後12時前に寝かせるまで付きっきり。心が自分の体よりも重たくなっていくことを感じました。母は認知症でしたから、寝ているときに漏らしてしまうこともあった。汚れたシーツを洗うために1日3回洗濯機を回した日もありました」

 華やかなスポットライトから離れた日常は、ノーメイクで服装にも構わなかった。履く機会がなくなったハイヒールには、カビが生えていた。息子と母の後押しで09年に舞台に復帰。介護士らの手も借りるようになった。数年前から施設に入っていたが、21年の正月に一時帰宅させた。

「入浴や寝返りをさせる練習をして、母を迎えました。毎日6時に起きて朝食を作り、食べさせて、話をする。仕事に行くときもあったけれど、一緒に夕食を取るために帰宅して。母中心の生活を送りました。ゆっくりお風呂に入って、一緒に『星の流れに』(菊池章子)歌って。大好きだったモルトウイスキーも飲んで」

 グラスを傾けた夜から4日後、綾戸の腕の中で帰らぬ人となった。

「別れのときも、モルトウイスキーを飲みました。『すぅー』と呼吸して、穏やかな最期でした。コロナ禍ですぐに葬儀の日取りなどが決まらなくて、息を引き取った後、1週間以上共に過ごしました。毎日見ていると、昨日よりも今日はしぼんでいるのが分かって、納得できた。娘として母を送ることができました」

 母の死後、周囲に「引退する」と告げていた。しかし9歳の誕生日に両親がプレゼントしてくれたピアノとの再会が、心境に変化をもたらした。

「小学校入学からデビューまでの間、弾き続けていたピアノを預けていた場所から引き取って、私の64歳の誕生日に再会しました。リビングに置いてあるので、煮物を作っている間、お風呂上りに下着姿でなど、好きなときに好きなだけ弾いています」

 コロナ禍のステイホームもあり、学生のとき以来、ゆっくりと演奏する時間ができた。過去を振り返ったことで、「歌いたい」という気持ちが再燃。昨年12月に5年ぶりのアルバム『Hana Uta』をリリースした。

「家の中で鼻歌のように歌っていた曲。そして40歳でデビューしたときにアルバムに収録した『Heritage』を20年ぶりに歌いました。収録した『Danny Boy』は子どものときに、母がキッチンで歌っていた思い出の曲。この2曲は母のために歌いました」

 都心から離れ、息子と暮らす現在は、三度三度のご飯を作ることが楽しみ。ご近所さんが「畑で採れた」と持って来てくれた野菜でおかずを作ったり、包んだ餃子が昼食に並ぶ日もある。

「余白ができたことで、心も体も整ってきました。ビルという邪魔者がないので、おてんとさんが上がったら目が覚めて、天候や四季を感じられます。キジやタヌキが遊びに来たこともありました」

 少しずつ変化しながら繰り返していく日々の中で、「私の生きるは、完成するのではなく、未完なりに『それじゃ、あとはよろしく』と続いていくもの」と気が付いた。

「見えないときは死が怖かったけど、母をみとったこともあり、『閉じるのもいいもんやな』と思えるようになりました。還暦も迎えたし、しんどいときもある。脚とかも、母と同じところが痛くなったりして、加齢も受け入れられるようになりました。500歳まで寿命があるわけじゃないから仕方ない」

 軽やかな笑顔は少女のよう。先を生きる者として若い人を悲観させるのではなく、憧れられる存在にならなくてはと気を引き締める。

 今秋、『綾戸智恵 LIVE 2023 -Hana Uta-』と題した3年8か月ぶりとなるホールコンサートが、9月17日に浜離宮朝日ホール(東京)で、10月28日に神戸朝日ホール(兵庫)で決定した。

「人前に出るからパックしなきゃね。草笛光子さんとか、キレイやもんね。街で声を掛けられることもあるみたいだし。元気な姿でみなさんに会えるように、笑って食べて。聴いてくれる人が1人でもいる限り、歌い続けたい」

□綾戸智恵(あやど・ちえ) 1957年9月10日、大阪府生まれ。両親の影響で幼少期からジャズとアメリカのハリウッド映画に囲まれて育つ。3歳でクラシック・ピアノを始め、中学に入るとナイト・クラブでピアノを弾くようになった。17歳のときに単身渡米した。91年に帰国し、大阪のジャズ・クラブでステージを経験。40歳のときにアルバム『For All We Know』でデビューした。『テネシー・ワルツ』、『アメイジング・グレイス』などの代表曲を持ち、2003年には『NHK紅白歌合戦』に初出場。その名を全国区にした。アーティストとしてはもちろん、俳優として映画『ロストケア』(前田哲監督、23年)など多くの映像作品でもその才能を開花させている。

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▼ゲストを招いたトーク多めのステージ『綾戸智恵 TALKING LIVE Vol.7』を6月23日に、東京・自由学園 明日館で開催。詳細は綾戸智恵公式サイト(https://www.chie-ayado.com/)で確認を。

▼Hana Uta 特設サイト
https://www.chie-ayado.com/discography/hana-uta/

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