元NHK岩田明子さん、就活の第一志望は山一證券 内定後に担当者が放った衝撃の一言

政治ジャーナリストで元NHK解説委員の岩田明子さん。故・安倍晋三元首相に“最も食い込んだ記者”として知られている。県立千葉高校を経て、1996年に東京大法学部を卒業後、NHKに入局。初任地は岡山放送局に配属された。夢破れた学生時代、NHKで事件記者だった頃について語ってもらった。

東大時代を語る岩田明子さん【写真:荒川祐史】
東大時代を語る岩田明子さん【写真:荒川祐史】

単独インタビュー 夢破れた東大時代、就職活動、NHKでの事件記者時代を振り返る

 政治ジャーナリストで元NHK解説委員の岩田明子さん。故・安倍晋三元首相に“最も食い込んだ記者”として知られている。県立千葉高校を経て、1996年に東京大法学部を卒業後、NHKに入局。初任地は岡山放送局に配属された。夢破れた学生時代、NHKで事件記者だった頃について語ってもらった。(取材・構成=中村智弘)

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 高校時代は医者になりたかったんです。でも、物理と化学が苦手で、泣く泣く、高校2年生のときに文転しました。しばらく目標を見失っていましたが、最終的に、人の命や人生に関わる仕事がしたいという気持ちが強くなり、大学3年生のとき、司法試験を目指し始めました。

 さっそく司法試験の予備校に通い始め、予備校、大学の図書館、自宅の“砂漠の三角生活”を送ることになります。そうなる前に1度、大学生活を存分に楽しみたいと思って、1年生の時に東大のテニスサークルに入りました。やっと念願の「彼氏」もできて、人並に青春を謳歌(おうか)していましたが、短い期間でフラれてしまいました(笑)。原因は……内緒です(笑)!

 大学には、2年間まで残ることができたので、6年生まで在籍し、司法試験に挑戦し続けました。ところが、憲法や刑法など、公法系の点数が一向に伸びず、このまま既卒で試験を続けるのか、それとも一度、社会人になるのか、悩みました。

 結局、司法試験の論文試験が終わった6年生の夏、社会を知ろうと思って、就職活動を始めたんです。その時に受けることができた会社は軒並み受けました。山一證券、東京電力、日本開発銀行……。マスコミで7月に受けることができたのはNHKだけでした。

 第一志望は山一證券でした。とてもアットホームな社風に引かれたからです。内定を頂いた後に、山一の担当者の方から「私が採用しておいて、このようなことを言うべきかどうか悩んだのですが……。あなたの人生を長期的な視点で考えると、うちではない方が良いのかもしれません……」と言われて……。「どうしてですか?」と聞いても、苦悩の表情を浮かべるばかりで、明確には教えてもらえませんでした。その後、山一證券の不正会計が発覚し、自主廃業を発表しました。

 当時、私は渋々、山一証券を諦めたのですが、自主廃業のニュースを目にしたとき、採用担当者の方を含め、親身になって示唆をしてくれたのだと感じました。その方とは、今でも年賀状のやりとりが続いています。

 家族や親せきは、私の性格やそれまでの学生生活をみて、マスコミ以外の会社に就職することを勧めました。実際、私もそうしようと考えていました。ところが、いざ決定の日が近づくと、私の心の中に、「マスコミに行ってみるべきでは」という、理屈では説明のつかない“感情”が膨れ上がったんです。

 司法試験漬けで世間知らずの学生時代でしたが、1度は自分の知らない外の世界を見て、視野を広げるべきでないのか……。海外旅行すら経験がなく、マスコミの世界には不安しかありませんでしたが、NHKへの入局を決めました。

事件記者当時を振り返った岩田明子さん【写真:荒川祐史】
事件記者当時を振り返った岩田明子さん【写真:荒川祐史】

27年間支えられた警察官の言葉「今辞めたら、敗北体験を背負って生きていくことになる」

 NHKに入って、最初の赴任地は見ず知らずの岡山。しかも厳しい環境の事件記者、いわゆるサツまわりです。一人暮らしも初めてで、とても心細かったのを覚えています。当時はセクハラ、パワハラに対して今ほど厳しいコンプライアンスがない時代でした。どの社も厳しい先輩が多く、取材対象である警察官や検察官は口が堅い。土地勘もなく知り合いもいない……。毎日、「今日こそ会社を辞めよう」と考えていました。

 ある日、私は裁判所の裏で、途方にくれて泣いていました。すると顔見知りとなっていた警察官が裏口から出てきて、「何しよん、そんなところで」と声をかけてきました。そしてこう語ったんです。

「新人さんよ、会社を辞めるのは、いつでもできる。でも、今辞めたら、その後の人生、敗北体験を背負って生きていくことになるよ。小さな事件でもいいから“私はこれをやりました”というものをやってから、辞めたら」

 その言葉を聞いて、「目の前の今日1日だけ全力で頑張ろう」という気持ちに変わりました。その後の27年間にわたる記者人生も、ずっとこの言葉に支えられてきたような気がします。

 警察の取材では、お酒もよく飲んでいました。課によっていろいろな作法や飲み方がありましたが、機動隊の方たちが、ビールのジョッキに日本酒をなみなみと注いで飲んでいたのには、当時、とても驚きました。

 駆け出しの頃は、どのように食い込めばいいかさっぱりわかりませんでした。夜射ち朝駆け以外に一体何をしたらいいのか…。本を読んだり、先輩から経験談を聞いたり、当時はまだ出入りができた無線室に顔を出してみたり。

 取材先や他社の記者とカラオケに行って、堀江淳さんの『メモリーグラス』の替え歌を歌ったりもしました。歌詞の「水割りをくださ~い。涙の数だけ」という部分を「特ダネをくださ~い。夜回りの数だけ」、と替えたりして。

 最後は、「あいつなんか、あいつなんか、あいつなんか、飲み干してやるわ」の部分を、「朝日(新聞)なんか、毎日(新聞)なんか、読売(新聞)なんか」なんて本人たちを前に歌ったりしていました。今思えば、のんびりした時代でもありましたね。

 基本的に特ダネは、当局が隠したがるものが多いものです。事件だったら“逮捕のXデー”とか、警察の不祥事です。ですから、取材先に肉薄するだけではなく、取材先と対等に渡り合えるだけの力量や距離感も求められます。初任地で、県警の不祥事を報道する際、そのことを痛感しました。

 その後は、取材先以外のバックグラウンドを増やしていくことを意識しました。これは政治取材においても同じで、政治家だけでなく、官界、財界に加え、芸能や文化、スポーツなどできるだけさまざまな世界の方と接する努力を重ねました。人脈の幅を広げる努力、“引き出し”を増やす努力は、絶え間なく続けてきたように思います。

□岩田明子(いわた・あきこ)千葉県船橋市出身。1996年、NHKに入局。岡山放送局へ配属。2000年、東京放送センター報道局政治部へ異動、官邸記者クラブ所属。02年、当時官房副長官だった安倍晋三元首相の番記者を担当し、以来、20年以上に渡って安倍元首相を取材。08年、外務省記者クラブに所属、北朝鮮問題を担当。09年、政権交代を経て鳩山由紀夫内閣の菅直人副首相の担当を務める。13年、NHK解説委員室へ異動、政治担当の解説委員と政治部の記者職を兼務。22年7月、NHKを退局、ジャーナリストとして報道番組に出演する一方で、月刊誌や専門誌などで執筆活動も続けている。趣味は昭和歌謡。現在は母親と二人暮らしで、介護に奮闘中。千葉大学客員教授・中京大学客員教授。

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