土屋昌巳が「一番伝えたかった」“教授”じゃない坂本龍一の姿 「立場が逆転した日」の記憶

ロックバンド・一風堂のボーカルで、1982年に『すみれ September Love』を大ヒットさせた土屋昌巳(70)が、ENCOUNTに亡き坂本龍一さん(享年71)への思いと自身の「今」を語った。かつて同じバンドで活動した坂本さんとの思い出は数多く、その生きざまに影響を受けてきたことを明かした。

坂本龍一さんとの思い出を語った土屋昌巳【写真:(C)Mazzy Bunny Inc.】
坂本龍一さんとの思い出を語った土屋昌巳【写真:(C)Mazzy Bunny Inc.】

1982年に『すみれ September Love』を大ヒット

 ロックバンド・一風堂のボーカルで、1982年に『すみれ September Love』を大ヒットさせた土屋昌巳(70)が、ENCOUNTに亡き坂本龍一さん(享年71)への思いと自身の「今」を語った。かつて同じバンドで活動した坂本さんとの思い出は数多く、その生きざまに影響を受けてきたことを明かした。(取材・文=福嶋剛)

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 坂本さんが亡くなって約1か月。土屋はしみじみと言った。

「『教授(坂本さん)の思い出を語ってほしい』と言われた時、僕が一番みなさんに伝えたかったことがあります。それは、YMO時代や映画音楽を手掛けていた“世界の坂本”の時代ではなく、ともに1952年生まれのプロとして音楽を始めた頃の坂本龍一です。それは同時に僕、土屋昌巳の歴史でもあります」

 土屋は、厳格な家庭で生まれ育った。少年時代、“不良の象徴”ロックは御法度だったが、父親に隠れてギターの腕を磨いた。そして、地元静岡の音楽コンクールで次々と入賞。17歳の時には、家の風呂場から逃げ出し、ザ・ゴールデン・カップスのローディーになった。その後、家に連れ戻されたが、大学進学を条件に父親からロックの道を許され、日本大芸術学部に入学した。

「大学の校庭でギターを弾いていたら、『面白いギターを弾くね』と突然声をかけられ、強引にスタジオまで連れていかれました。その人物がパーカッション奏者の斉藤ノヴです。シンガー・ソングライターのりりィさんが、フォークロック系のバンドを組むことになり、1973年にバックバンド『バイ・バイ・セッション・バンド』を結成して、プロとして歩み始めました」

 最初はアコースティック編成で、初期のRCサクセションと学園祭を回るなどしていた。そして、2年後にボサボサの長髪姿でサンダルを履いた学生がスタジオに来て、メンバーに加わった。

「坂本龍一さんです。まるでニール・ヤングみたいな風貌だったので、最初は『変わった人が来た』と思いましたが、坂本さんを連れて来たプロデューサーは『すごい演奏をするやつ』と言っていました。当時、僕が大学5年生、教授は東京芸大の大学院生でした。そういえば、教授は『僕の人生の中でバンドメンバーとして活動したのは、YMOとバイ・バイ・セッション・バンドだけだよ』と言っていました」

 後に沢田研二のバックバンドやプロデューサーとして名をはせる吉田建がベース奏者として参加。凄腕ミュージシャン4人が集まったバンドの日々は、今でも忘れることはないという。

「僕は後から入ってきた教授に、最初は偉そうに先輩面をしていていました。ところがある日、立場が逆転しました。『キャッチ・ア・ファイア』というボブ・マーリーがいたバンド、ザ・ウェイラーズのアルバムをラジカセで流していたら、教授が楽器を使わずに音だけを聴いて、紙とペンでバンドスコアを書き上げたんです。あっという間でした。それを境に僕が弟分になりました(笑)」

 その後、ともに全国を回った。信頼関係は深まり、絆もできた。

「全国ツアーが終わり、青山の木造アパートまで帰っていると、僕の後ろをずっとつけてくる怪しい人がいるので、振り向いたら教授でした(笑)。『どうしたの?』と聞くと、『家に帰ると、母親に山登りに連れて行かれるから泊めてくれる?』と言って、僕の家に転がり込んできました。自宅近くの喫茶店には小さなスタジオがありました。僕は『いつか出そう』と思っていたソロ曲をここで作っていました。教授やノヴさん、吉田建に演奏してもらい、カセットテープに録音しました。教授もそのスタジオで自作曲の録音をしていて、僕がギターを弾きました。残念ながら、その貴重なテープがどこにあるのか忘れてしまったんです」

 当時、坂本さんのニックネームは「教授」ではなかったという。

「ある日、ノヴさんが『どんなお酒が好き?』と聞かれ、教授は『アブサン』(=スイスが発祥のお酒)と答えました。それで『じゃあ、今日から君はアブサンね』となり、そう呼ばれていました。ちなみに僕は教授からマー坊と呼ばれていました(笑)」

 1978年、坂本さんはYMOを結成し、土屋は一風堂を結成。82年に初のソロアルバム『RICE MUSIC』を発表した。坂本さんのプロデュースで、ギター以外の楽器を坂本さんが演奏した曲『KAFKA』も収録された

「教授に曲を作ってもらいたくてお願いしたら、『じゃあ、全部僕に任せて』と言って、ソニーの大きなスタジオにとんでもない数の機材を持ち込んだんです。ツアー2セット分くらいです。山積みになった機材の中でレコーディングの最初に使った楽器がピアニカでした(笑)。ビックリしたというか、みんなで笑いましたね。楽しいレコーディングでした」

 土屋は同時進行で英国のミュージシャンたちと親交を深め、ロックバンド、JAPANのサポートギタリストとしてワールドツアーに参加。海外での実績を重ねていった。

「JAPANは、本当に天才集団で人間的にも優しくて最高のメンバーでした。そして、全員が教授を尊敬していて、教授が新作をリリースするとみんなで聴きながら、『この音はどうやって作っているの?』とよく話をしました。ワールドツアーで日本公演が実現し、教授が飛び入り参加した時はみんな大喜びでしたよ」

「残りの人生とどう向き合うかの段階にきました」【写真:(C)Mazzy Bunny Inc.】
「残りの人生とどう向き合うかの段階にきました」【写真:(C)Mazzy Bunny Inc.】

ギター講師として音楽を学び直す日々をすごす

 90年代に入ると土屋はロンドンに移住し、坂本さんはニューヨークを拠点にした。土屋にとって世界で活躍する坂本さんは、「憧れ」だった。

「1度、イギリスでソロコンサートをされた時に楽屋を訪ねました。昔と変わらず、『元気そうじゃん』と言って温かく迎えてくれたんです。あれだけのキャリアを重ねてきた教授が、昔のまんま僕に接してくれたことがうれしかったです。それ以降はほとんどお会いする機会はなかったですが、教授の新作を聴かせていただくと、毎回『根っこは変わらないな』と感じていました。生意気ですが」

 土屋が感じた坂本さんの変わらない一面は他にもあった。「音色を極める姿」だ。

「教授のドキュメンタリー番組を見ていたら、ニューヨークのご自宅が映ったんです。チェロやバイオリンをわざとこすって音を出している姿は、昔と変わらない音色に対する深い思いやその音色を極める姿勢でした。自分の中にあるものを形にするため、作り続けていないと生きていけない人たちのことを僕は『天才』と呼んでいますが、教授は最期までそういう人でした」

 坂本さんの訃報に触れ、土屋はSNSに追悼メッセージとともに思い出の写真を投稿した。

「すべての思い出が走馬灯のように頭の中を回りました。家に泊まった時、教授はドビュッシー、僕はヤードバーズを聴いて育ったという話をしたり、テクノやパンクミュージックが出てきた時に『それは(音楽の)自然な流れじゃないのかな』と教えてくれたり、近くの喫茶店でデモテープを作っていた時、『その音いいね』って僕のギターの音を褒めてくれたり、『マー坊とは音楽の向かっている方向とか趣味が一緒だからすぐに仲良くなれたよ』って言ってくれたり、そんな言葉がよみがえりました」

 坂本さんが亡くなる前に驚いたこともあったという。

「先ほどお話した行方不明だったデモテープが見つかったんです。吉村栄一さんの著者『坂本龍一 音楽の歴史』に書かれていて、教授が大事に保管していたそうです。膨大な数の仕事をしてきた教授が、こんなデモテープまで大切に持っていてくれたと分かった時、言葉では表せないくらいうれしかったです。そんな風にどんな音楽でも大切にする心の持ち主が坂本龍一なんです」

 土屋は、デュラン・デュランのメンバーらとレコーディングするなどし、音楽プロデューサーとしてもTHE BLANKEY JET CITYやGLAYの作品も手掛けてきた。そして、現在はギター講師に挑戦している。

「半年前にスタートしました。今までギターを教わったことも人に教えたこともないんですけど、自分の経験を伝えながら、僕自身この機会に音楽を学び直したいと思いまして」

 生徒は30~60代で初心者からプロ級のすご腕もいるという。

「最初に面接をして1人1人にあったテキストとカリキュラムを作ります。練習用のオリジナル曲を作って対面で教えていますが、弾き方を教えるだけじゃなく、なぜこういう和音や響きになるのかと体系的に教えてあげることで、『さらに音楽の面白さを知ってほしい』と思っています。やってみると僕自身が勉強になりますし、世代の違う生徒さんの好きな音楽も知ることができて楽しいですよ」

 コロナ禍で精神的に落ち込んだ時期もあったというが、自身の音楽活動もマイペースで続けている。

「僕も今年で71歳です。残りの人生とどう向き合うか、そんな段階にきています。教授やデヴィッド・ボウイさんも自然の力に逆らわず、自然な方向へと進んでいった。偉大な2人を前におこがましいですが、どんなにテクノロジーが進化しても、音楽への敬意を忘れずに、『これからも音楽に夢中でありたい』。そう思っています」

 坂本さんの生きざまは今後も、土屋の道しるべになりそうだ。

□土屋昌巳(つちや・まさみ)1952年8月22日、静岡・富士市生まれ。78年、一風堂を結成。ボーカル、ギターを担当し、82年に作曲した『すみれ September Love』が大ヒットした。英国のロックバンド、JAPANのワールドツアーにサポートメンバーとして参加した後、一風堂は84年に解散。ソロに転じた後の土屋は5枚のアルバムを発表。90年からロンドンに移住し、BLANKEY JET CITYなどのプロデュースを担当。2013年11月、自身主催のレーベルから15年ぶりにソロアルバム『Swan Dive』をリリースした。

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