【週末は女子プロレス♯97】膠原病、肺がん…病を乗り越え幸せな引退 ダイナマイト・関西「プロレスで完全燃焼した」

いまから30年前の1993年4月2日、横浜アリーナで開催された全日本女子プロレスのビッグマッチにはJWP、LLPW、FMWが参戦。対抗戦ブームの本格的スタートとなり、さまざまな選手が団体の看板を背負い大熱闘を展開した。その対抗戦時代の主役のひとりが、JWPのダイナマイト・関西である。

対抗戦時代の主役だったダイナマイト・関西【写真:新井宏】
対抗戦時代の主役だったダイナマイト・関西【写真:新井宏】

ジャパン女子の旗揚げメンバーとしてデビュー かつての憧れはクラッシュギャルズ

 いまから30年前の1993年4月2日、横浜アリーナで開催された全日本女子プロレスのビッグマッチにはJWP、LLPW、FMWが参戦。対抗戦ブームの本格的スタートとなり、さまざまな選手が団体の看板を背負い大熱闘を展開した。その対抗戦時代の主役のひとりが、JWPのダイナマイト・関西である。

 関西は新団体ジャパン女子の旗揚げメンバーとして86年8月にデビュー。団体解散後はJWPのトップとして君臨し、入門を果たせなかった全女の最高峰であるWWWA世界シングル王座に他団体選手として初めて到達した。そもそも関西をプロレス界に引き込んだのは、80年代、日本中に大ブームを巻き起こした長与千種&ライオネス飛鳥のクラッシュギャルズ。クラッシュにあこがれ、第2のクラッシュを夢見ていたのだ。

「全女には14歳と15歳のとき、2年連続で落ちたんや。一度目は最終審査の手前で落ちて、やっぱり選ばれし者の世界、上には上がおるんやなあと思った。それで翌年にもう一度応募したんやけど、書類審査さえ通知が来なかったから全女の事務所に乗り込んでいった。昨年よりもっと鍛えて身体大きくしてきたのに何で落とす? 意味を説明しろってね。そしたら社長室に通されて、最終番号を渡すからオーディションに来てくださいと。それでフジテレビに行ったよ。でもやっぱりダメやった。最終審査で落ちたね。運がないんやあなって……」

 レスラーへの夢をあきらめようと思った。でも、あきらめきれない自分がいた。モヤモヤしていた頃、偶然、新団体旗揚げのニュースを知る。当時、女子プロと言えば全女。それ以外には考えられず、新団体という言葉自体が衝撃的だった。

「近所の酒屋さんの店頭で雑誌が売ってて、なんの雑誌か忘れたけど、何気なく見てたら、『新団体ジャパン女子旗揚げ』ってあったんや。そこにジャッキー佐藤さんの名前もあって、ここにかけてみようかと思った。レスラーになれるのならどこでもいいと思ってたからね」

 海の物とも山の物ともつかない新団体ながら、藁にも縋る思いで応募し、合格。念願のレスラーデビューへの道が開けたのである。

「うれしかったねえ」と当時を振り返る関西。しかし、デビュー戦前につけられたリングネームに違和感を覚えた。「ミスA」……。

「オレ、必要とされてないんやと思った。あまり期待されてないから、誰でもいいようなリングネームにされたんやないかなって」

 それでも、レスラーとしてリングに立てたことは何よりもうれしかった。「プロレスできる喜びの方が何百倍も大きかったから、辛いこと苦しいこと、耐え忍んでこれたよね」

 やがて、大きな体から繰り出されるパワーを武器に団体内で台頭。自身でも、トップでやっていかないといけないと自覚するようになっていく。実績も残し始めた頃、改名を申し出た。

「やっぱりミスAの名前がずっと引っかかってたんや。新人の頃は会社に言うても『秋元康さんが考えてくれたんだからそう簡単に変えられない』『なにわがまま言うとるねん』と怒られるだけやから、我慢してた。でも、もうそろそろええやろと思って直談判。会社に認められて、ダイナマイト・関西にしたんや」

 このリングネームは、ほとんど本人のアイデアによるものだという。「ダイナマイト」は当時のキャッチフレーズ、“ダイナマイトパワー”から。関西(京都)出身であることを強調したくて、そのまま「関西」とした。無個性の「ミスA」から、ベタベタとも言える「ダイナマイト・関西」へ。発表当初は笑いも起きたものの、本人はこちらの方がしっくりきたという。そしてすぐに、ダイナマイト・関西という個性的でスケールの大きなリングネームがピタリとはまったのだ。

 ところが、改名から半年もたたずしてジャパン女子が解散。選手たちはJWPとLLPWの二派に分裂した。

「団体ってこうも簡単に潰れるもんなのかと思ったね。全女しか知らかなったし、団体がなくなるなんてどういうことか理解できなかった。とにかくみんな途方に暮れてたね」
 このとき、ジャパン女子の流れを汲む新団体設立の噂を聞き、これもまた「団体って作れるものなんだ」と衝撃を受けた。そこから集まった関西、デビル雅美、尾崎魔弓、キューティー鈴木、福岡晶らで旗揚げされたのがJWPである。

「みんなが一致団結するように、周りになにもない一軒家を借りて合宿生活をしたんや。朝から晩まで同じ生活をして、旗揚げへの気持ちを固めようということでね。風間(ルミ)さん、神取(忍)さんのLLPWには絶対負けヘン、そこよりも人気、知名度のある団体に絶対にするんやという意気込みやったね」

病を隠しながらリング上で勇姿を見せていた【写真提供:OZアカデミー】
病を隠しながらリング上で勇姿を見せていた【写真提供:OZアカデミー】

JWP旗揚げ、尾崎魔弓とのタッグで奮闘 対抗戦時代の幕開け

 JWPは92年4月に旗揚げ。するとその年の11月、突如として全女との対抗戦が勃発する。関西が尾崎魔弓とのタッグで全女の川崎大会に乗り込み、山田敏代&豊田真奈美組と対戦。全女圧倒的有利の声が大きいなか、これが想像をはるかに上回る大熱戦となり、団体対抗戦へのきっかけとなった。この試合、関西&尾﨑組の奮闘がなければ、対抗戦時代はやってこなかったかもしれない。

「おお、きたかと率直にワクワクした。そうか、(全女には)オレが必要なのかと思ったね。(全女の)社長から全員、オレの試合を見ろ、ざまあみろと思ったよ(笑)」

 オーディションで2度落とされた団体へのリベンジに燃えた。と同時に、慣れない3本勝負や体の小さい尾崎が潰されるのではないかとの不安も大きかった。実際、入りたくても入れなかった全女の選手からは心技体とも差を感じた。「やっぱりあのしがらみの中で生き抜いてこれた選手やから、並大抵じゃないよね」。それでも、尾崎の負けん気が試合をより熱いものにしてみせた。「あれは尾崎が頑張ったよ。オレは尾崎がいたから頑張れた。初っ端から豊田のキックで記憶吹っ飛んじゃったけど、その先がすごかった。尾崎を見てて、オレ、コイツら潰さなあかんなと思ったから」

 JWPを、そして関西自身を見せつけるために全女のリングに上がった関西。翌年4月の横浜アリーナでは全女オーディションで知り合った堀田祐美子と一騎打ち。あこがれの長与ともシングルで対戦し、アジャコングというライバルと巡り会えた。アジャからはWWWA世界シングルのベルトも獲得。オーディションで2度落ちた団体の頂点に立ったのである。

「オレ、ジャッキーさんにベルト取りましたよって見せたかった。ジャッキーさんにはホンマに新人時代から目をかけてもらってたんや。あるとき、『ちょっと来い』ってオレだけ呼ばれたの。なんやと思ったら、『オマエさんは、ほかとは違う。この世界でトップに立つ人間やからみんなと同じことしてたらダメや』と。その時は何を根拠に言うてんのか分からへんし、どういう意味やろうと思いながら何年もたった。そして自分が全女の赤いベルトを持った。親やJWPファンに取ってきたぞって言いたかったのと同時に、心の中ではジャッキーさんにやりましたよ、持ってきましたよって報告したいと思ってたね」

 やがて対抗戦時代は終焉を迎え、関西はJWPからGAEA JAPAN、OZアカデミーへと戦場を移した。どこのリングでも頼もしい限りの強さを発揮した関西だったが、肉体が病に蝕まれていたのもまた事実だった。

「26、27歳のときに膠原(こうげん)病になったんや。2012年には肺がんで左の肺を摘出。1年くらいそれを隠して欠場してた。医師からはもうやっちゃダメだって止められたよ。それでもオレは、先生の意見は聞くけどオレはオレの道を行くからと言って試合を続けたんや」

 弱いところを見せたくなかった。病を告白したのは、引退を発表したときだ。そして16年12月11日、関西は現役を退く。

「周りの人たちや選手に恵まれて、ホンマに幸せな引退式やったよ」と関西。引退後3年間はなにもしない、好きなことだけをすると決めていた。ある意味、鞭打って闘ってきたことへのご褒美だった。そして、それを実行。膠原病とは一生付き合っていかなければならないというが、この10年間、幸いなことに薬を飲まなくてもいい状態だという。現在では不動産会社の役員をするかたわら、OZアカデミーの営業部長としても活動。リングアナウンサーや配信の解説などでプロレスと関わっている。

「尾崎から引っ張り出されてやってるんだけどね(苦笑)。尾崎も月に一度はオレの顔を見ないとダメみたいやから(笑)。会場でプロレス見てるとね、やっぱり楽しい。いまの子たちは素晴らしいと思う。オレやったらこうするのにとか考えるときもあるけど、だからといって復帰したいとか、もう一度やりたいと思ったことは一度もない! だって、プロレスで完全燃焼したからね」

 引退試合には、主治医と手術を担当した医師を会場に招待した。関西の方から「私がどういう試合をしてきたか(知ってもらいたい)。最後の雄姿を見てください!」と声をかけたのだ。そこで逆境を乗り越えるプロレスラーの強さを誇示してみせたのである。「試合後、先生は『よくやったね』って涙流して感動してた。抱き合って喜んだよ!」。挫折と屈辱からレスラーとなり、対抗戦時代の主役となった。さらには病にも打ち克った関西。引退興行でプロレスラー人生の集大成を実感できたからこそ、現在も充実した人生を謳歌しているのである。

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