28歳で持ち金5億円から300万円に…億万長者社長は“夢の生活”なぜ捨てた? 今は「物欲ない」

28歳で預貯金5億円、月の飲み代800万円。そんなやり手若社長は、突然に会社を閉じて妻の家に居候の“貧乏生活”に……。どん底から経営者として再起し、現在は伝統の和菓子業界にDX(デジタルトランスフォーメーション)をもたらす風雲児として注目されている。紆余曲折のジェットコースターのような人生を歩んできた、「ストラク株式会社」の渡辺大河社長の横顔に迫った。

紆余曲折の経営者人生を歩んできた「ストラク株式会社」渡辺大河社長【写真:ENCOUNT編集部】
紆余曲折の経営者人生を歩んできた「ストラク株式会社」渡辺大河社長【写真:ENCOUNT編集部】

23歳当時の年収は2000万円でも「お客さんと飲む毎日でほぼ持ち出し」 ジャガーとキャデラックの愛車売った時期も

 28歳で預貯金5億円、月の飲み代800万円。そんなやり手若社長は、突然に会社を閉じて妻の家に居候の“貧乏生活”に……。どん底から経営者として再起し、現在は伝統の和菓子業界にDX(デジタルトランスフォーメーション)をもたらす風雲児として注目されている。紆余曲折のジェットコースターのような人生を歩んできた、「ストラク株式会社」の渡辺大河社長の横顔に迫った。(取材・文=吉原知也)

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 49歳の渡辺社長の頭の中には子どもの頃から、ある人生のイメージがあった。「お金持ちになりたい」。そして、「小さいときに東京タワーから見た町の景色、そこで『東京でやっていこう』と思うようになったんです」。19歳で早くも起業。内装店のM&A(合併・買収)を手がけたのが、経営の第一歩だった。しかし、金もなければ人脈もない。“その次”がなかった。そこで、営業マンとして出直しを図った。営業の世界は天職だった。不動産会社でトップの成績をたたき出すようになった。

「生命保険以外の営業は全部やったと思います。営業マンは5、6年続けました。23歳の頃の年収は2000万円でした。でも、手取りは月100万円ぐらい。結構引かれるんですよね。営業は花形と言われて、昼に出勤してすぐ出て行っても、数字を出していれば文句を言われない。上長は、一癖も二癖もあるどころか、三癖も四癖もある人たちばかりで(笑)。当時はそんな時代でした」。

 誰が見ても、高給取りのエース。だが、こんな難点があった。「朝までお客さんと飲む毎日で、ほぼ持ち出し。意外と貯金がなくて、通帳記入のときが、一番削られました」。サラリーマンでは1億円を持つことは難しい――。それに、母親からは貯金が大事だと教えられたが、貯金では長い年月をかけても億万長者にはなれない。そこで考えたのが、当初目指していた経営者の生き方だった。

 ここから快進撃を見せた。25歳で商社を立ち上げ、EC(電子商取引)販売の会社を作り、美容室5店舗を買った。さらに、目を付けた健康食品が大当たり。一時期は、芸能プロに出資をするほど、多角経営が成功。「まさに、成金小僧ですね」。28歳で個人の預貯金5億円となり、億万長者の夢をかなえた。

 だが、ここで「調子に乗り過ぎた」。月の飲み代は800万円。金を湯水のごとく使った。「三大メンズが欲しいもの『家・時計・車』を買って、次に走ったのが、ダメ人間の要素だったんです。飲み歩いて、世界中のカジノに遊びに行って。飛行機代やホテル代は無料、向こうが招待してくれるんです。『その分、使ってね』ということで、大会に出たりもしました」と、当時の生活を振り返る。

 その先に、落とし穴が待っていた。お金を使いまくる生活の中で、自分を見失う。5つの会社の経営には見えないプレッシャーがのしかかっており、気性も荒くなった。やがて、人間不信に陥る。従業員による横領も発生した。「業績悪化ではなく、単純にやる気がなくなったんです。ビジネスに取り組む思考が止まりました」。自分の会社すべてをたたんだ。しかも急に。整理するにも数か月かかり、ありとあらゆる違約金が発生した。結局、手元に残ったのは、300万円程度。30歳でどん底へと落ちた。

 唯一の希望が、31歳のときに結婚した妻だった。一時期、池袋で家賃6万円の妻のマンションに居候させてもらった。妻の存在で人生が救われた。

「貧乏生活になりましたが、自分にとっては、心が解放されて、精神的にものすごく楽になったんです。妻も喜んでくれていました。妻には本当に感謝しています」。ジャガーとキャデラックの愛車を売り、車なし生活に。社長時代とは真逆の生活になったが、人間らしさを取り戻すことができた。

居候時代に「見てはいけないものを見てしまった」 現在は和菓子文化の活性化に尽力

 心身が落ち着くと、持ち前のビジネス魂が再びうずくように。もともと食べることが好きで、飲食業の世界で再スタートを切ることを決意した。31歳で、有名焼き肉チェーンの運営会社に就職。早速、営業の手腕を発揮した。「月給は25万円。入って3か月で、10億円の売上を出しました。過去の最高記録の3倍だったそうです」。FC(フランチャイズチェーン)経営に興味を抱くようになった。ここからの行動が早い。転職の誘いを受けると、自ら条件を出した。「移籍金600万円、年収1000万円にプラスでインセンティブ。FC事業を仕切らせてもらえること」。3か月で別会社に転職した。そこで数年間、FC経営のノウハウをみっちり学んだ。

 その後、30代で居酒屋を新規開店。見事に経営者の座に返り咲いた。持ち金5億円から300万円に転落。そこからの復活だった。だが、昔のように、成金になりたいという思いはなかった。「居候時代に、見てはいけないものを見てしまったんです。今まで買ったDVD作品のコレクションを妻がTSUTAYAで売っていたんです。そこまでお金がないのか、とショックを受けました」。愛する妻にこれ以上の苦労をかけたくない――。必死の思いで働いた。

 飲食店は初期費用がかかり、利益率はそこまで高くなく、経営者仲間からは「やめたほうがいい」と助言を受けていた。だが、「居酒屋が好きで、自分の店をやってみたかった」と、海鮮系居酒屋をオープンさせた。「お客さんにセルフで浜焼きをして食べてもらうスタイルなのですが、これは、自分が調理ができないから思い立ったアイデアだったんです(笑)」。2017年には116店舗まで拡大した。成長させた会社を売却し、次の大きなチャレンジを成功させるサイクルで、事業をさらに広げていく。次に、北海道物産店を軌道に乗せて売却。カフェ経営もうまくいき、たどり着いたのが、和菓子の世界だった。新たな“映えスイーツ”としての話題を集めている「飲む生わらび餅」の開発・FC展開に成功したのだ。

 現在、自身が社長を務めるストラク株式会社では、「和菓子と科学技術の融合」を掲げ、担い手不足などの課題を抱えて下降線をたどる和菓子業界を元気付けようと、ビジネスを拡大させている。わらび餅の製造を受け持つ同社のセントラルキッチンでは、ロボットが職人の役割を担っている。「例えば、小豆を煮る工程で、一番のポイントになるのは火力なんです。職人のさじ加減の調整を数値化して、ロボットに入力します。緻密に機械化することで、職人の味が生産できるわけです。ウチの工場では、従業員が1週間研修しただけで、月5トンの上質なわらび餅を作ることができています。DXの技術を駆使した営業システム構築、商品開発、ロボットによる生産の一体化を進めて、FCを展開しています」と力説する。外資系ホテルへの営業に注力しており、販路拡大にも余念がない。

 そんな渡辺社長は、和菓子店の維持拡大・職人育成などを目的とするNPO法人「国際和菓子協会」を22年に設立。「和菓子文化を活性化させたい。和菓子を世界に広めたい」という信念を貫き通す考えだ。

 並々ならぬ情熱を持ち、多くの人をいい意味で巻き込む、そのバイタリティー。一方で、「今はもう物欲がなくなった」という。あれだけ買いまくっていた高級品。ここ2年は、スーツや靴、時計は買っていない。飲み代は「当時の100分の1ぐらいですね」と笑う。従業員の誰よりも早く出勤し、営業部員が帰るのを見届けている。

 大きな変化は、子どもを持ったことだ。「子どもが生まれてから、自分が社会のために何ができるのかを考え、もっともっと役立ちたいと思うようになったんです」。無借金経営の同社は来年の上場を目指して準備中。「もちろん、自分の仕事をしっかりやって、会社を、従業員を、家族を守るのは当然ですが、もっと社会貢献をしたい。この気持ちがどんどん大きくなっています」と力を込めた。

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