【週末は女子プロレス♯93】難民→銀行員→プロレスラー…ボスニア出身アレックス・リーの激動人生、日本マット界への思い

日本でさまざまな団体に参戦したアレックス・リーは、ボスニア・ヘルツェゴビナの出身である。ボスニア初の女子プロレスラーでもある彼女は、1992年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争による惨劇を目の当たりにした。戦禍を逃れるため故郷を離れ、母とともに難民となった。そしてオーストラリアに移住後、プロレスラーになるきっかけをつかんだ。これまで多くの女子プロ団体で試合をしてきたアレックスだが、過去の境遇についてはほとんど知られておらず、自ら語ることもなかった。が、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まって1年。現在の世界状況を鑑み、自身の体験を日本のメディアで初めて口にする決心がついたという。

これまでの人生について打ち明けたアレックス・リー【写真:新井宏】
これまでの人生について打ち明けたアレックス・リー【写真:新井宏】

プロレスを通して訴える世界平和

 日本でさまざまな団体に参戦したアレックス・リーは、ボスニア・ヘルツェゴビナの出身である。ボスニア初の女子プロレスラーでもある彼女は、1992年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争による惨劇を目の当たりにした。戦禍を逃れるため故郷を離れ、母とともに難民となった。そしてオーストラリアに移住後、プロレスラーになるきっかけをつかんだ。これまで多くの女子プロ団体で試合をしてきたアレックスだが、過去の境遇についてはほとんど知られておらず、自ら語ることもなかった。が、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まって1年。現在の世界状況を鑑み、自身の体験を日本のメディアで初めて口にする決心がついたという。

 アレックスは1985年6月、首都サラエボで生まれた。3歳のときに両親が離婚、スウェーデンに移住した父とは以来一度も会っていない。それでも、彼女は親戚たちに囲まれ幸せな日々を過ごしていた。ボスニアが戦禍に包まれた、あの日までは……。

「ボスニアは日本と似ていて四季がある国なんです。夏は海水浴、冬はスキー。家に閉じこもっているのが嫌な活発な子で、いつも外でスポーツをしていましたね」

 2歳上のいとこが、兄のような存在だった。遊びに行くときは、いつもいとこと一緒だった。ところが、そのいとこの誕生日がまったくことなる意味で忘れられない日となってしまう。

「バースデーパーティーの準備を済ませ、当日目が覚めると世界が一変していたんです。カーテンを開けたら人通りがまったくなく、道路には戦車が。その後、銃撃が開始され、たくさんの人が目の前で犠牲になりました」

 同じ国に住む三つの民族が独立をめぐり内紛。1992年4月6日、サラエボは戦禍に包まれた。

「すべてが一夜にして変わってしまったんです。外に出られなくなり、学校にも行けなくなって、電気や食料も不足。学校も家も爆撃されてなくなってしまったんです」

 アレックスの家族はマンションの1階に住んでいた。同じマンションの住民、親戚、友人ら、何の罪もない一般市民が射殺される現場を目撃してしまった。日本でいう小学2年生になろうかというところで、彼女は大きなトラウマを植え付けられてしまう。どうして同じ国に住む人たちが憎しみ合い、殺し合うのか。約4か月間外出ができず、家の窓を段ボールでふさいで隠れるように暮らしていた。家を失うと、狭い地下トンネルでの集団生活を強いられた。

「その後、バスに乗せられ母と一緒にクロアチアの難民キャンプに移動させられました。大好きないとこや友だちと別れなくてはならなかったからサラエボを離れたくなかった。でも、あのときはそうすることしかできなかったんですよね」

 クロアチアでの難民生活は約1年半。その後、英語を話せる母とともにオーストラリアに移ることになった。ブリスベンは気候がよく、彼女には別世界に映った。学校では4年間の空白を飛び越えいきなり6年生になり困惑。英語が話せない状態だけに、なおさらだった。異国での生活に慣れるまでには大変な苦労があったとはいえ、少なくともここには平和があった。

 しかもハイスクールでは海外からの学生も多く、人種差別的な扱いはほとんど受けなかったという。アレックスは大学に進学し、卒業後は銀行で働いた。さまざまなハンディを乗り越えて、新しい人生を切り拓いてみせたのである。しかし、彼女には別にやりたいことがあった。オーストラリアでプロレスを知り、レスラーになりたいとの夢があったのだ。

ド派手なコスチュームで入場するアレックス・リー【写真提供:アレックス・リー】
ド派手なコスチュームで入場するアレックス・リー【写真提供:アレックス・リー】

コロナ禍を経て日本復帰「日本のストロングスタイルなプロレスが好きなんです」

「プロレスを知ったのはアクシデントのようなものですね(笑)。テレビやネットで映像を見て、アメリカのプロレスを見るようになりました。また、日本のプロレスも見つけて、長与(千種)さんのZEROや全日本の四天王プロレスに衝撃を受けました。そこから自分でもやってみたいと思ったんです」

 とはいえ、当時放送されていたのは海外のプロレスで、現地でのライブではない。レスラーになりたいがどうしていいか分からない。それでも人伝にランス・ストームのレスリングスクールがカナダにあると知り、入門を決めた。

「母には言いませんでした。あの頃の私は怖いもの知らずだったので(笑)」

 南半球から北半球への移動。ストームのスクールではさまざまなところから練習生が集まっていた。カナダでデビューし、WWEとも契約、2011年6月から約半年間、傘下団体FCWで試合経験を積んだ。12年にオーストラリアに戻りアレックス・リーのリングネームで再デビューすると、REINAで初来日し、3か月間日本に滞在した。日本が好きになり12年10月に再来日すると、定住型の外国人レスラーとしてさまざまな団体に上がるようになる。KAIENTAI DOJO、WNC、センダイガールズ、wave、Marvelousなど。15年から16年にかけてはスターダムにもレギュラー的に参戦した。

 しかし、世界が新型コロナウイルス禍に見舞われると、試合は激減。日本のマット界からもいつの間にか姿を消した。コロナ禍が落ち着き始めた昨年は、フランスで試合をした。そして今年に入り、再び日本にやってきたのである。

「やっぱり私は日本が好きだし、日本のストロングスタイルなプロレスが好きなんですよね」

 日本で再び活躍の場を求めたいというアレックス。彼女を支えているのは、日本の「ガンバル」に相当するというボスニアの言葉「INAT(イナット)」だ。

「ボスニアと日本は似てると言いましたけど、ガンバルという精神も似てるんですよね。INATって、諦めないで、負けないで、努力して、ベストを尽くして一生懸命にやるというニュアンスなんです。日本語のガンバルに相当する精神。私は子どもの頃、言葉も分からない状態で外国に行きました。それでもINATの気持ちで大学に合格し、銀行で働くこともできました。オーストラリアがマルチカルチャーの国だったことにも救われましたね。そして、そこで知ったプロレスにハマり、プロレスラーにもなれました。負けず嫌いの性格が幸いしたのもあると思います。なのでこれからも、INATの精神でがんばっていきたいと思ってます」

 そして、いまも世界のどこかで戦争が起こっている状況を憂い、自身の過去を語ることとした。いままではプロレスに没頭することでトラウマを乗り越えてきた部分がある。が、これからは経験を伝えることによって世界の現状をより知ってもらいたいとの思いがある。

「ボスニアでの体験をあえていままで言わなかったのは、話すことによって聞く人に嫌な思いをさせたくないとの気持ちもあったんです。が、ウクライナ侵攻が始まってから1年たっても世界の現状は変わらない。かつてサラエボで起こったような悲劇がいまだに繰り返されている。それが残念で仕方なくて、告白しようと思いました」

 平和な国でこそプロレスは栄える。たとえどこの国であろうともプロレスを通して世界平和を訴えられれば。ボスニア初にして唯一の女子プロレスラー、アレックス・リーはそう考えている。

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