亡き友人のハチロクを4年がかりでレストア かなえた生前の悲願 「いい供養ができた」
山梨県の男性トレノSEさんの愛車は、1985年式トヨタAE86スプリンタートレノ(ハチロク)だ。実は全く同じ車を2台保有している。1台は21歳のときに購入し、もう1台はボロボロの状態から4年がかりでレストアした執念のハチロクだ。いったいなぜ? そこには志半ばで急逝した自動車整備士の友人との“約束”があった。
突然の訃報に絶句 「本当びっくりしたし、ショックでした」
山梨県の男性トレノSEさんの愛車は、1985年式トヨタAE86スプリンタートレノ(ハチロク)だ。実は全く同じ車を2台保有している。1台は21歳のときに購入し、もう1台はボロボロの状態から4年がかりでレストアした執念のハチロクだ。いったいなぜ? そこには志半ばで急逝した自動車整備士の友人との“約束”があった。(取材・文=水沼一夫)
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2月18日、パシフィコ横浜で行われた旧車・絶版車が集うクラシックモーターショー「ノスタルジック2デイズ」。そこで、レッドカーペットの上を進むハチロクの姿があった。一般公募で選出されたオーナー車両を展示する晴れ舞台「栄光の選ばれし10台」で選ばれ、男性は「運よく選ばれてここへ今日来られたので、今日で完結かなという感じですかね」と感慨深げな表情を浮かべた。
もともとこのハチロクは男性が持ち主ではない。オーナーは、山梨の自動車工場「山口自動車」の整備士、土屋信将さんだった。2017年ごろ、中古でハチロクを入手。「どこから持ってきたのか分からないんですけれども、7AGというエンジンが載っていましたので、おそらく競技とかドリフトに使っていた車だと思います。平成の終わりのころでしたね」。ボロボロの状態だったが、土屋さんは古い車の修理が得意だったという。サーキットでの走行を目指し、レストアに着手した。
「もともと本人が乗るか、僕がサーキットを乗る用に作ろうかという話だったんですけれども、思いのほか板金作業がきれいに仕上がりましたので、ちょっと路線が変わりまして」
土屋さんは毎年開催される「ノスタルジック2デイズ」をこよなく愛していた。「このイベントに出たくて」と、目標を車両の展示に切り替えた。
ところが、平成から令和になった矢先の19年5月、土屋さんは突然の病に倒れ、返らぬ人になってしまう。
「僕も含めてみんな年だから体に気をつけようねなんてそんな話をしていた矢先だったんです。本当びっくりしたし、ショックでした」
男性は土屋さんと仕事のつながりを超えたよき友人関係だった。「年は僕の方が上なんですけれども、職場が近いところにあったり、山梨はハチロクの仲間が大勢いまして、本人も若いころ乗っていたのかもしれないんですけども、皆さんがやっぱりハチロクを直したり、整備を依頼していたので、そういう関係で知り合いになって、付き合いが始まったんです」
もともとはスバルのメカニックで、レースにも出場。整備士としての確かな腕を持ち、地元で愛される存在だった。「地域が農業地帯。ぶどう園の中にある工場なので、地域の方の農機具まで見てあげるようなすごい気さくな方でした」
男性はハチロクのレストア完成を二人三脚で見守った。
「亡くなる前は普通に毎日会っていて、車のバカ話みたいなことばかりしていたんですけども、亡くなってしまったら本当にぽっかり何か…。この車どうするんだよっていう感じで」
まだ44歳の若さだった。男性は途方に暮れた。自動車工場の経営は土屋さん1人でこなしていた。他の客からも車を預かっている。現実を受け止められないまま、目の前のハチロクをどうすればいいのか悩んだ。レストアは道半ばで、やるべきことは山積している状態だった。
「作業をずっとしていたので、本当にバラバラの状態でした。タイヤなんかも辛うじてナット2本で止まっているような、ブレーキも付いてない、そんな状態だったんです」
土屋さんの頭にあった“設計図” 「これでよかったのかな」
唯一の希望は、エンジンはレストアが終わっていたことだった。男性は土屋さんの遺志を継ぎ、車をなんとかよみがえらせるべく、レストア作業の引き受け手を探した。
「板金屋さんが若いころにカローラに勤めていたっていう、それだけの理由で組み立ててくれた。専門外だと思います」
困難な道のりを多くの仲間や協力者に支えられながら歩み、ついにゴールにたどり着いた。「工場をお手伝いしてくれた方が最後エンジンのチェックまでやってくれました」。男性は車そのものを買い取り、21年8月に車検を通した。21歳のときから30年乗るハチロクと同じカラー。何かの縁だった。維持も大変な2台持ちも、「知らない人のところに行ってしまうよりも、僕らで引き取って、再生させてあげた方がいいかなと思ってちょっと無理して買いました」と決意した。
イベントの「栄光の選ばれし10台」に応募すると、出展が決まった。墓前に報告した男性は「本人がこのイベントに出たくて、僕も何回か連れてきてもらったことがあったんですよ。これで願いがかなったっていうふうに思ってくれればうれしいかなと。僕もうれしいですし、周りの協力でここまできれいに皆さんがしてくれたので、喜んでくれていると信じたいです。いい供養ができたかなと」と感無量になった。
実は土屋さん、14年にも68年式日産プリンス・スカイライン1500バンDXで「栄光の選ばれし10台」に選ばれていた。男性はそのことをイベントの直前に知ったという。車を替えての“2台目”。それはまさに車に人生をささげた執念の結晶だった。
山梨からイベント会場に向かう途中、男性は「もしかしたら一緒に乗ってきたかもしれない」と振り返る。「亡くなった土屋くんの中に頭の中に、この車の設計図があったので、どうしたかったかというのは今となっては分からないです。これが正解だったのかどうかは…。途中からはやりたいようにやらせてもらいましたけれども、これでよかったのかなっていうのはちょっと分からないんですね」。ただ、はっきりと言えることがある。土屋さんの魂は今もハチロクに宿り続けている。「自分の中ではどうしてもやっぱり土屋くんのものという印象がある」とほほ笑んだ。
現在、山口自動車は建物を残したままひっそりとたたずむ。「リフトとかが残っているので、仲間内でオイル交換とかそういったものに使わさせてもらったりはしてます」。草葉の陰から時折の“来客”を待っているかのようだ。
「維持費とかもかかりますけど、周りもみんな期待してくれて、さっき話したように農村の中にある自動車工場で、亡くなったときに周りの人や農家の方に言われたんですよ。『乗ってやらなきゃダメだよ』って。それ思い出しちゃうとやっぱ手放せないですよね」
男性はありし日の土屋さんの姿を懐かしみ、復活したハチロクに熱いまなざしを向けた。