「アナウンサーになる」宣言でNMB48卒業も…キー局全落ち→ABEMAアナへ 瀧山あかねの異色経歴

「ABEMA」初代専属アナウンサーとして活躍する瀧山あかね。NMB48の2期生としてアイドル活動をしていた過去を持つ瀧山だが、どのような経緯でABEMAの初代アナウンサーに就任することになったのか。そのルーツに迫った。

アイドル活動を経て憧れのアナウンサーとなった瀧山あかね【写真:ENCOUNT編集部】
アイドル活動を経て憧れのアナウンサーとなった瀧山あかね【写真:ENCOUNT編集部】

NMB48加入1年で卒業、後悔した大学生時代

「ABEMA」初代専属アナウンサーとして活躍する瀧山あかね。NMB48の2期生としてアイドル活動をしていた過去を持つ瀧山だが、どのような経緯でABEMAの初代アナウンサーに就任することになったのか。そのルーツに迫った。(取材・文=中村彰洋)

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 瀧山がアナウンサーという職業に憧れを抱いたのは小学生の頃。「関西出身だったので『おはよう朝日です』(ABCテレビ)などを毎朝見ていて、『こういうお姉さんになりたいな』と思うようになりました」と振り返る。

 そんな憧れを胸に抱きながらも、初めて表舞台に立ったのは“アイドル・瀧山あかね”としてだった。2011年、17歳でNMB48の2期生オーディションに合格。同年5月からは研究生として活動をスタートさせた。

「元々アイドルが大好きでした。こじはる(小嶋陽菜)さんがすごい好きで、ファンとして握手会にも行きました。NMB48の握手会にも行ったことがあって『会いたい』『プライベートでも仲良くなりたい』と思ったのが応募のきっかけでした(笑)」

 しかし、合格からわずか1年ほどたった12年1月15日、アイドル活動に終止符を打った。

「レッスン期間を含めると1年以上活動させてもらいました。忙しすぎて、朝だけ行って早退という日々でした。その期間はほとんど学校に行けませんでした。私が通っていた学校は進学校だったのですが、出席日数も足りない上、テストも受けられていなかったので『このままでは進学できない』と先生から言われました。『どうしよう……』と悩んだときに、母親に『大学を見学しに行く?』と提案されて実際に見に行きました。母親から『こういう生活か、アイドルを頑張るか、どっちがいい?』と言われたとき、『大学生になりたい』と思いました。その時期、3期生の応募も始まっていて、メンバーが増えていく中で、私がトップを取るのは難しいと思っていました。長い目で見たときに、不安定な人生を進もうとしてるのかもしれない……。早い段階でアイドルを続けるのは厳しいと判断し、安定の道を選びました」

 瀧山の卒業後、NMB48は躍進を続けた。「未練はめちゃくちゃありました。『紅白』(紅白歌合戦/NHK)に、一緒に頑張っていた研修生たちが出ていて、家で観てるという状況がとてもつらかった」と当時の葛藤を振り返る。

「私はなんでこんな貴重な席を簡単に手放してしまったんだろう」。そんな後悔を抱き続けていた。一方で、憧れ続けていたアナウンサーへの夢へと向かって歩き始めたのもこの頃からだった。

「実は、NMB48の卒業公演で『アナウンサーになります』と宣言したんです。大口をたたいての卒業だったので、意思は固かったです」

 大学入学後はアナウンサーになるための日々だった。アナウンサースクールに通い、少しでも知識を吸収するべく、タレント活動を再開させた。

「人前に出ることが好きというのもありますが、なによりもアナウンサーになりたい目標があったので、大学生活中になにもしないのは不安でした。アナウンサーになりたい人たちは、関西のテレビ局でお仕事をしている子も多かったので、『私もプロの方に教えてもらう場を設けないと、アナウンサーになれないかもしれないぞ』と思い、タレント活動を始めました」

 学生時代にさまざまな経験を積んだことで、よりアナウンサーへの思いは募っていった。

「プロのアナウンサーの方々とお仕事をさせてもらい、よりアナウンサーになりたい気持ちが強くなりました。表向きアナウンサーは華やかに見えて、裏でもプロフェッショナルを感じました、1つ目に伝え方、2つ目に見えない努力です。私も自分が伝えた言葉で人の行動が変わることにやりがいを感じました。また、見えない努力を楽しめるとも思いました。『アナウンサーは番組のためにたくさんの準備をしているけれど、その2割ほどしか本番では話せていない。それがアナウンサーの仕事なんだよ』と言われたのをとてもよく覚えています。準備をする大変さも感じつつ、知識や視野が広がることも面白い仕事だと同時に教えてもらいました」

念願かなった“天職”「ずっとアナウンサーの仕事をしていたい」

 迎えた就職活動。瀧山の就活の軸は「アナウンサー」と「東京」だった。アナウンサーとして応募したのはキー局のみ。さらに、一般企業にも応募したが、いずれも「東京」での生活を見据えていた。

「学生の頃の私は、東京が情報量も人脈もいろんな面で1番だと思っていたんです。そんな環境の中で、自分がどれだけの結果を残せるかを知りたくなりました。関西で就職していても『東京に行きたい』と考えたと思います。地元の尼崎が大好きだったのですが、地元を出て挑戦してみたかったんです」

 しかし、一般企業からの内定はもらえたものの、キー局は全落ち。アナウンサーの夢が諦められず苦悩していたときに見つけたのが、ABEMA専属アナの募集だった。「『東京でアナウンサーになるにはどうしたらいいんだろう』と悩んでいたとき、ABEMAの募集を見つけました。本当にラストチャンスでした」。

 無事にABEMA初代専属アナ3人の内の1つを勝ち取った瀧山だったが、初期のABEMAはキー局と比較すると規模も小さく、つねに迷いや不安と戦う日々だった。

「葛藤はすごくありました。知り合いの子たちがキー局の大きな番組を担当しているのを見たときは、つらかったです。最初は『ABEMA、なにそれ?』『アナウンサーいるんだ』とか、そういうことを平気で言われてしまうので、キー局との差を嫌でも実感する日々でした。悔しい気持ちも1年目の頃はすごくありました」

 しかし、そんな思いも徐々に消えていった。「先輩がいない環境で、本当に手探り状態。土台をイチから作って、もらった仕事を全力でやらないと次がないという状況が続きました。『ABEMAアナウンサーの質をとにかく上げなきゃ』ということを1番に考えて仕事を進めていくうちに、気づいたら仕事の幅が広がっていましたね」。

 現在では、バラエティーにスポーツや公営ギャンブルなどさまざまなジャンルのレギュラーを抱えている。アイドルを卒業したときに抱いた後悔も今はまったくない。

「NMB48と同じくらい、ワクワクする夢の席にもう1度座ることができたのが大きいです」

 急スピードで成長していくABEMA。今ではキー局への劣等感を抱くことはなくなった。「これからも大きくなるABEMAにずっと貢献し続けたいという気持ちが今は1番大きいです」。

「ずっとアナウンサーの仕事をしていたいです」。これからも憧れ続けた“天職”で自分ができることを一つずつ着実に積み重ねていく。

□瀧山あかね(たきやま・あかね)1994年5月10日、兵庫県・尼崎市出身。2011年にNMB48の2期生として加入。12年1月15日に卒業。14年にはタレント活動を再開し、『村上マヨネーズのツッコませて頂きます!』(関西テレビ)にレギュラー出演していた。18年4月にはABEMA専属キャスターに就任。現在は『ぜにいたち』や競輪・ボート番組などさまざまなジャンルの番組に出演中。

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