脳外科医とデザイナーの異色二刀流 47歳女性の壮絶人生「3歳のときに両親を捨てた」

昨年9月にニューヨークコレクション進出を果たし、ファッションデザイナーとしても活躍する異色の脳外科医がいる。髪をレインボーカラーに染め、Dr.まあやの名前で時折テレビにも出演する注目の二刀流。なぜ多忙な生活が必至の2つの仕事に情熱を注ぐのか。背景を探ると壮絶で激しく、タフな人生が見えてきた。

異色の経歴を持つDr.まあや【写真:ENCOUNT編集部】
異色の経歴を持つDr.まあや【写真:ENCOUNT編集部】

2022年9月にニューヨークコレクション進出

 昨年9月にニューヨークコレクション進出を果たし、ファッションデザイナーとしても活躍する異色の脳外科医がいる。髪をレインボーカラーに染め、Dr.まあやの名前で時折テレビにも出演する注目の二刀流。なぜ多忙な生活が必至の2つの仕事に情熱を注ぐのか。背景を探ると壮絶で激しく、タフな人生が見えてきた。(取材・文=中野由喜)

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 まず、なぜ医師になったのかと理由を聞くと「私、変わった人生だったので」と切り出し、衝撃的な過去を明かした。

「3歳のときに両親を捨てました。母と合わないことに3歳のときに気付いたんです。両親は仲が悪く毎日ケンカ。私は特に母が好きじゃなく、岩手の祖母が東京に来た時、祖母に『ここにいたくないから岩手に連れて行って』と頼んで岩手に行き、そこで暮らすようになりました」

 なぜ母が嫌いだったのか。

「近親憎悪です。性格が似ているんだと思います。何を考えているかよく分かり、逆に合わない。すぐ衝突しました。母はすごく気分やで、幼い頃、私が話しかけると『考え事しているから話しかけないで』と言う人でした。幼いながら顔色をうかがいながら生活するのが本当に嫌でした」

 医師への進路選択は祖父が医師だったことも少し影響があるようだが、ある愛読書が大きく関わっていた。

「小学校のときから祖母の家にある『女性自身』が愛読書でした。テレビでは華やかに見える芸能人が、裏ではいろんな問題やお金の話が取りざたされ、世の中には裏があり、お金にまつわる厳しさがあると知りました。世の中に出たとき、私は耐えられるかという不安が小学生の途中からわき、確信に変わったのが中1のとき。中高6年間をワイワイ楽しんでも結局6年で終わる。6年間楽しむかその先の人生を勝ち組で過ごすかを考えたとき、必然とその先を考えた方が得だと思いました。その近道は医者だと、中1になって1週間で進路を決めました」

 高校は地元・岩手の進学校だが成績は中の上レベル。心折れることなくひたすら勉強し、地元の大学の医学部に合格。頑張れたのはある思いから。

「親族に祖父以外に医師はいません。私は家族に変な子のように思われていましたので、医師になれば家族をぎゃふんと言わせることができると思って頑張りました。反骨精神です」

 ここで脳外科医をしながらファッションデザイナーになった理由を聞いた。

「脳外科専門医取得後、大学院で研究をしていたとき、うまくいかないことがあって教授に怒られてボーっと山手線を2周したことがありました。この先、どう生きていくかを考えていました。そのとき、自分の死ぬ瞬間まで全部想像できちゃったんです。私は独身なので、ある日、先生が来ないと病院で騒ぎになり、家に行ったら死んでいたみたいな。そのとき、思いました。こんなに想像できる人生でいいのか、もっと想像しえない人生を送りたいと。ちょうどそのとき、電車から目白にある日本外国語専門学校海外芸術大学留学科のオープンキャンパスのポスターが目に入りました。小さい頃からミシンを使うことが好きで『女性自身』のファッションのページを見るのも好きな私は、本格的にファッションデザインの勉強したい、どうせなら好きなことで留学に行きたい、と考え、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズに約2年留学しました」

七色の髪はなんと地毛、「人がまねできない人生を送ろうと思っています」【写真:ENCOUNT編集部】
七色の髪はなんと地毛、「人がまねできない人生を送ろうと思っています」【写真:ENCOUNT編集部】

次の時代を生きる若者へ「世界を意識しながら生きることが必要」

 帰国後、脳外科医に復帰しつつ、スタイリスト大園蓮珠さんの下でアシスタントを約2年間行い、2013年にデザイン研究所を開設。昨年9月にはニューヨークコレクションでランウェーを披露。

 脳外科医との両立は大変なはず。どんな生活なのか。

「土曜の朝5時半ごろに家を出て飛行機で北海道に行き、土、日は釧路の病院の当直で、月曜は昼まで外来の仕事。夕方、東京に戻ります。火曜は横浜の慶大病院の関連クリニックと川崎のクリニックで外来。水曜の午前中は小平のクリニックで外来。水曜の午後から金曜までファッションの仕事です」

 休日がない。なぜ二刀流を続けるのか。

「医師は間違った道ではなかったと思っています。ただ、脳は完成された臓器。命を助けるために手術することがあっても何か機能を良くするには限界を感じることも。一方で、デザインはゼロから作りあげ、どんなに頑張っても100%完璧な状態を見ることはありません。100に向かって上がるのと100から落ちるベクトルの差を2つの仕事で埋めている感覚です。両方の仕事で自分が保たれています」

 ハードな生活。体力は大丈夫か。

「私の最大の能力はいつでも、どこでも眠れること。飛行機の中でも爆睡できます。自由自在に眠ることができるので体力を温存でき、いろんなタスクが増えても同時進行できます。一番自慢できる能力」

 つらくはならないのか。

「うまくいかないことばかりでつらいです。ファッションショーで歓声を浴びる10分間の喜びのために生きている感じでしょうか。日々の中で何人かの患者さんから頂く感謝の言葉も支えです」

 パワフルな生き方。次の時代を生きる若者にアドバイスを頼んでみた。

「日本の若い人は海外で勉強をして、グローバルな知識の中でどう生きるべきかを考える機会があった方がいいと思います。私は10年前のロンドン留学で、このままでは日本は危ないと痛感しました。クラスの半分は欧州の学生で、他は中国や韓国を中心にしたアジアの人たち。日本人は私だけ。海外の学生は明らかに意識が違いました。『自分は世界で活躍するんだ』という気持ちがすごかった。日本人が取り残されていく、いつか日本は中国や韓国に追いつけない状況になる危機感を感じました。今、中国経済や韓国のエンターテインメントを見ると『やっぱり』という思いです。海外の人と交流し、世界を意識しながら生きることが日本に必要だと思います」

 自身の生き方には医師ならではの思いも影響している。

「私は脳外科医として、人はいつ死ぬか分からないという思いを日々しています。いつ死んでも後悔のないように生きようと思うようになりました。死ぬ瞬間に生きていて良かった、よく頑張ったと思って死にたい。人がまねできない人生を送ろうと思っています」

 トレードマークの七色の髪は本物。医師として働く際は病院に迷惑をかけないよう黒髪のかつらをつけている。強い人であると同時に優しい気遣いの人でもある。

□Dr.まあや 1975年6月15日東京生まれ。岩手県で育ち2000年に岩手医科大学医学部を卒業し、医師免許取得。同年慶應義塾大学外科学教室脳神経外科入局。10年にファッションデザイナーになるため日本外国語専門学校海外芸術大学留学科でアートの基礎を学ぶ。11年に英に留学し、Central Saint Martins Art and Design, Foundation courseを修了して帰国後、13年にDr.まあやデザイン研究所設立。脳神経外科医として勤務しながらファッションデザイナーとしても活動。

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