高橋洋子の母が昨年11月96歳で死去 縛られ、仕切られ、対立も「一番の理解者」

俳優・高橋洋子の母・恭子さんが老衰のため昨年11月1日に都内の病院で亡くなったことが分かった。高橋がこのほど取材に応じて明かした。96歳だったという。2021年10月に公開され、高橋が監督・脚本・主演をこなした映画『キッド哀ラック』は高橋の母をモデルにした作品。公開当時、高橋は「親のエゴでどこまで子どもを縛っていいのか、というのはずっと考えてきたテーマでした」と話していた。高橋に母との思い出、母への思いを聞いた。

亡き母について語る高橋洋子
亡き母について語る高橋洋子

90歳になっても1人でバスを乗り継いで都内の銭湯巡り

 俳優・高橋洋子の母・恭子さんが老衰のため昨年11月1日に都内の病院で亡くなったことが分かった。高橋がこのほど取材に応じて明かした。96歳だったという。2021年10月に公開され、高橋が監督・脚本・主演をこなした映画『キッド哀ラック』は高橋の母をモデルにした作品。公開当時、高橋は「親のエゴでどこまで子どもを縛っていいのか、というのはずっと考えてきたテーマでした」と話していた。高橋に母との思い出、母への思いを聞いた。

「90歳になっても1人でバスを乗り継いで都内の銭湯巡りをするような母でした。ただ心臓が弱ってきて、21年95歳になった時に倒れ、22年になってから3月、5月、9月と入退院を繰り返すようになりました。入院中はコロナ禍で直接会えず、モニターの画面越しで対面したのですが『洋子、あんた老けたわね』と失礼なことを言っていました(笑)」

 どんな母だったのか。聞くと、いきなり幼なじみの紹介から始まった。

「幼稚園も小学校でも一緒だった、てっちゃんという男の子がいて、その子の家族は将来、息子を弁護士にしたいと公言するほど優秀な子でした。実際、てっちゃんは今、弁護士をしています。母は、てっちゃんのお母さんとママ友でした。てっちゃんのお母さんから勧められた学習ドリルを私に与え、てっちゃんがバイオリンを始めると私も習いました。習字もピアノも一緒に習いました。母は教育熱心であると同時にものすごく負けず嫌いだったと思います。おかげで縛られっぱなしでした」

 縛られた話には前半と後半があるという。1972年公開の映画『旅の重さ』で主役に起用され、73年放送のNHKの連続テレビ小説『北の家族』でヒロインを務めたころまでが前半だという。

「女優の道を志して誰もが知っている文学座に入り、1年目に銀幕デビュー。私もびっくりしたし、母もびっくりしていました。朝ドラのヒロインをやるようになってからは、母は親戚など身内に対してだけですが、ある意味、鼻高々になっていました。私はそれが嫌で嫌で。子どもの頃は成績が良かったので祖母に散々、私の成績を自慢していましたし。嫌でしたね。プレッシャーでしたよ。その後、母は私を仕切るようになったのです」

 仕切るとはどういうことか。

「芝居好きだった母なりに理想の女優像があって、私がジーパンでテレビ局に行こうとすると『女優が、そんなかっこうで行くんじゃない』と言い始めたのです。母には女優なら司葉子さんや星由里子さんのようにあるべきという思いがあったようです。当時、若者に流行していた洋服を着てもいろいろ言うので、うっとうしかったですね(笑)」

母との思い出の中で悔いが残ることが一つ「私の舞台を1度も見せてあげられなかった」

 教育熱心な母に縛られてきた娘の愚痴のようにも感じるが、ただ、表情は笑顔。楽しそうに話す。では後半はどうか。

「今の私のできることはギターを弾きながら歌ったり、小説を書いたり。それを母は『全部、お母さんのおかげだ』と言っていました。バイオリンを習わせたからギターの弾き語りができるんだと。昔は銭湯に『若草物語』とか少年少女が読む本が置かれていましたが、銭湯ではゆっくり読む時間がないので、母がそうした本をたくさん買ってくれました。寝る前には読んでくれました。だから今、小説を書けるようになったと言うんです。おかしいでしょ。入り口に連れて行ってくれたのは母。でも努力したのは私でしょ(笑)。そんなことを言い合っていました」

 後半は今の高橋があるのは自分のおかげだと主張する母と自分の努力だと言う娘の“対立の構図”。高橋はそれを楽しそうに話す。母には高橋がかわいい自慢の娘だった。懸命に育ててきた。そんな親心を高橋はちゃんと分かっている。気兼ねのない母娘の言葉のやりとりは仲がいいからこそと感じる。

「かわいらしいこともありました。90歳くらいの時、私のデビュー作の映画『旅の重さ』を上映するイベントのパンフレットを見つけ、冥土の土産にちゃんとした劇場でもう1度見たいと言うんです。東京・神保町シアターまで連れて行きました。見終わった頃に迎えに行ったら『平日の昼のこんな雨の日に、お客さんがたくさん入っていたのよ』と驚いていました。その時、私は母が一番の応援者なんだと思いました。だって、お客さんの数まで数えていたんですよ」

 あらためて母への思いを聞いた。

「お母さんのことは大好きです。お芝居で悲しくて涙を流すシーンでは、母がいなくなったらと思って演じていました。それだけ大好きで大切な母。私が今、大きな病気もせずに元気でいられるのは母のおかげ。亡くなった時、『よく頑張ったね』という言葉とともに『丈夫に生んでくれてありがとう』と感謝の言葉をかけました」

 最後に悔いが残ることが一つあるとして紹介してくれた。

「舞台が好きな母に、実は私の舞台を1度も見せてあげられなかったんです。うまく都合が合わなくて。悔いが残っています。いつか、どこかの舞台に立てたら天国から母は見てくれるかしら。でも『洋子、老けたわね』と言われるかも(笑)」

 娘を縛り、仕切り、娘の成功は自分のおかげと主張する母。言葉だけとらえると、いい思い出とは言えないようにも感じるが、高橋は終始、笑顔で話した。楽しい思い出として心に刻まれている。

□高橋洋子(たかはし・ようこ)1953年5月11日、東京都出身。72年、高校卒業と同時に文学座付属演劇研究所に入所(同期は松田優作氏)。同年、映画『旅の重さ』のオーディションに合格、ヒロインとしてスクリーンデビュー。73年、NHK朝の連続テレビ小説『北の家族』のヒロインに抜てきされる。74年、映画『サンダカン八番娼館 望郷』で、田中絹代が演じる主人公の10代~30代を演じ話題に。81年、小説『雨が好き』で作家デビュー(第7回中央公論新人賞受賞)。83年、同小説を自らの監督・脚本・主演で映画化した。主な出演作は映画『さらば箱舟』『パイレーツによろしく』など。2021年9月からスペースクラフト・エージェンシーに所属。

次のページへ (2/2) 【画像】31歳当時の母・恭子さん(右)と4歳の時の高橋洋子
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