一家で夜逃げ、二人三脚の父とけんかのまま死別…日本初開発で世界を驚かせた“なにわの情熱社長”

一家で夜逃げ、剛腕の父と二人三脚での再起、そして、けんか別れのまま父との死別…紆余曲折を経て、“世界をあっと驚かす”をモットーに力強く歩む経営者がいる。アルミ製品の設計・製造・販売を行う「株式会社エーディエフ」(大阪市)の島本敏社長(43)だ。柔軟な発想力と丁寧なものづくりによって、国際スポーツ大会向けに日本初開発した「同時通訳ブース」が世界的な舞台で活躍、コロナ禍でも最高売り上げを達成。なにわの名物社長の親子物語に迫った。

「夢をかなえることで人生を豊かにしてほしい」と語る島本敏社長【写真:株式会社エーディエフ提供】
「夢をかなえることで人生を豊かにしてほしい」と語る島本敏社長【写真:株式会社エーディエフ提供】

「ワンマン、カリスマ」の父の背中を追った アルミ製品メーカーながら仰天の多角経営

 一家で夜逃げ、剛腕の父と二人三脚での再起、そして、けんか別れのまま父との死別…紆余曲折を経て、“世界をあっと驚かす”をモットーに力強く歩む経営者がいる。アルミ製品の設計・製造・販売を行う「株式会社エーディエフ」(大阪市)の島本敏社長(43)だ。柔軟な発想力と丁寧なものづくりによって、国際スポーツ大会向けに日本初開発した「同時通訳ブース」が世界的な舞台で活躍、コロナ禍でも最高売り上げを達成。なにわの名物社長の親子物語に迫った。(取材・文=吉原知也)

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 島本社長の“経営者人生”は、「昼間の夜逃げ」から始まる。大阪でアルミ加工会社を営む家族のもと、4人きょうだいの末っ子として生まれた。父の守さんは当時約150人の社員を抱える関西でも指折りの会社に成長させたが、規模拡大が原因で倒産。両親は九州に移り、長女は1人暮らし、残りのきょうだいは大阪で集団生活をするようになった。「自分たちは必要な荷物を持ち、両親の分はトラックに積んで。そこから家族が一時期、バラバラになりました」。

 大学受験はそっちのけで、「いつか父と一緒に働きたい」との思いを胸にバイトに明け暮れた。事業失敗で一時は自殺も考えたという守さんは一念発起。メーカーで働くことに憧れを抱いていた守さんは、当時20歳の島本社長と共に、製造業で再起を図ることを決意し、エーディエフを創業した。

「夢とロマンを持つこと」を掲げていた守さんは、あらゆる工業製品や日用品でニーズが絶えることのないアルミ製品を通して、息子にものづくりの担い手になってほしいという夢を託した。「『俺の夢の続きを、という思いもあるし、お前のために残す会社をもう一度、という思いもある。どうする?』 そう聞かれました。答えは、『はい、か、YES』しかないでしょう。父に『お願いします』と即答しました」。島本社長は当時を振り返る。

 守さんは創業者ながら別の会社で働き、そこで得た給料をエーディエフに資金投入。島本社長は会社運営の都合で22歳で社長に就任し、親子で再出発を図った。

 いきなりヒット商品を生み出した。東北のリフォーム会社からの相談を機に、サビにくいアルミを用いて新開発した日本初の「オールアルミの雪止め器」だ。「雪も知らない大阪人が東北のニーズにいち早く対応した」ことが奏功。当時20代の島本さんは営業の“切り込み隊長”として東北を飛び回った。「父からは、『行きの飛行機のチケットは用意するけど、帰りのチケットは自分で稼げ。売れるまで帰ってくるな』と言われまして。大阪で桜を見て、その後に東北を回る中で2回も桜を見ました。ものすごい営業をかけていたので、皆さんに嫌われちゃったかもしれません(笑)」。情熱とパワーで同社は成長を続けた。

 一方で、厳格な守さんは面と向かって「島本敏社長」を認めることはなかった。創業して10年が過ぎ、仕事が慣れてきた島本社長は「生意気になってしまった」。32歳の時、守さんの反対を押し切り、多額の借り入れをして土地を買って新社屋建設(現在の本社)を断行。翌年の年始の会議、ここでも態度の悪さが目立った。その場で守さんは机を蹴って外に出て行った。「俺をなめているやろう、やれるならもう自分でせい」。翌日は大事な取引先が訪ねてくる。島本社長は「まあ、明日は来るだろう」と楽観視していた。だが、父が戻ってくることはなかった。

「その取引先との大事なプレゼンテーションで、うちの母から録音しておきなさいと言われたんです。なんやオヤジにチクる気か、と思ったのですが、自分のしゃべりを聞き直してみると、愕然(がくぜん)としました。抑揚なく、淡々とただ1時間話しているだけ。オーバーリアクションで熱く語る、父の話し方がいかに大事だったか、痛感しました」。島本社長は心を入れ替え、経営の勉強、新技術の開発、販路開拓に猛進した。

亡き父が残した手紙…「これからは社長と呼んでほしい」と書いてあった

 何度も実家に頭を下げに行ったが、なかなか守さんから許しをもらえなかった。守さんにがんが発覚し、腎臓摘出、闘病…。けんか別れの4年後に守さんは帰らぬ人となった。

 後になって守さんから従業員に向けた手紙が見つかった。亡くなる約1年前の日付だった。島本社長について、「これからは社長と呼んでほしい」と書いてあった。実は息子を社長として認めてくれていたのだ。

「手紙には、僕のことについて『社員を思いやる気持ちを持っている。小さな会社では大事な要素』とも書かれていたんです。父はもちろん従業員を大事にしていましたが、会社の理念を文章化する時に『私たち』と書こうとすると、『私、やろ! お前がまず先頭に立て!』と怒鳴る、そんな人だったんです。ワンマン、カリスマ。その言葉通りの人でした。僕は何事も従業員と一緒になって考えて動いていくタイプです。僕のスタイルについても父はよく理解してくれていた、そう実感しました」と思いを明かす。

 そこからは本当の意味の一本立ち。島本社長が、自らのアイデアを実現させた成功事例がある。日本で行われた国際スポーツ大会での自社製品「同時通訳ブース」の納品だ。「島本社長の夢、一緒にかなえさせてください」と名乗りを上げた吸音パネルメーカーと共同開発した。同時通訳ブースは、記者会見などを担当する同時通訳者のために周りの雑音から守るブース空間。2018年から開発をスタートさせた。

 だが、当時は日本国内のJIS規格に合うものはオランダ製とカナダ製しかなかった。「せっかくの日本開催なのに日本製のものが世にないのであれば、史上初のものをつくってみよう」。軽量のアルミを使い、2人でも組み立て可能で、マグネットを使用したシンプル構造によるブースを完成させた。特許も取得した。実際に世界の関係者を驚かすことができ、「ゼロからものを作る。実は僕にとってはこれが初めてのことだったんです。親父が言い続けてきたことを実現できました」と感激の思いを語る。その国際スポーツ大会の次回開催の場でも、同時通訳ブースを視野に入れた製品納入を目指しているという。

 島本社長の指揮のもとで、数年前に新規参入した飲食業界・メディカル業界の売り上げは好調。アルミの技術力を生かしたさらなる社会貢献の商品開発にも力を入れるつもりだ。従業員30人は先日20歳を迎えたばかりの若い世代から80代まで、幅広い世代が働いている。アルミ製作会社なのに、インターネットが得意な男性社員がウェブ事業部を立ち上げ。他社の公式サイト運営に関する相談を受けるなど、仰天の多角経営を加速化させている。

 島本社長は「この会社で働く社員さんには、夢を持って、その夢をかなえることで人生を豊かにしてほしいです。この会社を半永久的に残す、これが僕の仕事だと思っています」と熱く語る。そして、偉大な父についてこう思っているという。「一番尊敬できる人です。大げんかをしていろいろありましたが、父が亡くなって4年ぐらいたって気付いたことがあります。僕がこうしてものづくりの会社にいること、これが父にとっての夢で、もうかなっていたんだなって。父は僕のこと、会社のことを愛していたんだ。そう実感しています」。創業者である守さんの大きな愛を感じながら、これからも世界を驚かせていく。

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