【週末は女子プロレス♯74】“みんなの兄貴”水波綾が歩んだプロレス道 「思い出作り」で参戦した米国で「引退撤回」

“みんなのアニキ”として親しまれているフリーの水波綾。エネルギッシュなパワーファイトとハイテンションなノリでさまざまな団体を盛り上げている。その原点はテレビで偶然見かけたGAEA JAPANだった。長与千種と広田さくら(現・旧姓・広田さくら)が組むチーム・エキセントリックの試合で、とくに広田のプロレスに衝撃を受けた。高度すぎるコスプレでまずは見た目のインパクトを与え、師匠・長与を強引に引っ張る形で独自の世界観を確立(長与がバカ負けする姿もこのチームの魅力だった)。これを見た小学生の水波は、プロレスに対するイメージが一新されたという。

女子プロレス界の“アニキ”水波綾【写真:新井宏】
女子プロレス界の“アニキ”水波綾【写真:新井宏】

パワーファイトとハイテンションなノリで様々な団体を盛り上げる水波綾

“みんなのアニキ”として親しまれているフリーの水波綾。エネルギッシュなパワーファイトとハイテンションなノリでさまざまな団体を盛り上げている。その原点はテレビで偶然見かけたGAEA JAPANだった。長与千種と広田さくら(現・旧姓・広田さくら)が組むチーム・エキセントリックの試合で、とくに広田のプロレスに衝撃を受けた。高度すぎるコスプレでまずは見た目のインパクトを与え、師匠・長与を強引に引っ張る形で独自の世界観を確立(長与がバカ負けする姿もこのチームの魅力だった)。これを見た小学生の水波は、プロレスに対するイメージが一新されたという。

「いままでは女子プロって髪の毛を引っ張られて痛いとか、怖いとか思っていたんですけど、広田さんの試合を見たらおもしろい。おもしろい上に、ボコボコにされても相手にぶつかっていく姿にすごく感情を揺さぶられて、自分もなりたいと思ったんです」

 以来、男女を問わずプロレスを見るようになり、男子では全日本プロレス時代の小島聡に魅了された。小島がちょうど三冠ヘビー級王座を奪取した頃だ。

「インタビューで小島さんが『ボクはピープルズチャンピオンになりたい』とおっしゃっていたんです。『お客さんと一緒に闘って、みんなで喜びを分かち合いたい』と。実際、そう見えたし、そんな小島さんの試合に引き込まれていく自分に気づいたんですね。それまで、プロレスラーってひとりだと思ってたんですよ。ひとりで勝つか負けるか、個人プレーヤーだと思ってた。だけど小島さんのプロレスから、みんなで一緒に闘うんだと知り、嫌なことがあっても元気をもらえるプロレスにますますハマっていきました。きっかけを作ってくれたのが広田さんで、なりたいレスラーは小島さんになったんです」

 水波は長与と広田のいるGAEAに入門し、2004年11・3後楽園ホールでデビュー。まだ16歳の少女だった。しかし、彼女はGAEA最後の新人となってしまう。翌年4月に団体が解散。実は、団体の終焉(しゅうえん)が正式決定してからのデビューだった。

「解散が発表される前にそのお話を聞きました。まだデビュー前だったんですけど、このあとどうする?って。私はGAEAでデビューしたかったし、GAEAへのこだわりがあったので、とにかくここでデビューしたいですと言いました。当時は解散の理由なんてよくわからないし、どれだけ大変なこともわからない。当時の私にはデビューするしかなかったんですよね」

 ファイナル興業の1週間前にライオネス飛鳥が引退、解散興行で長与もリングを下りた。それぞれの去就が注目される中、新人の彼女もその日の試合(ダイナマイト・関西戦)がラストマッチになった。わずか16試合のプロレスラー生活だった。

「そのときはそのときで、未練もなくやり切った感があったんです。GAEAへのこだわりが大きかったですから」

 その後、スポーツトレーナーの専門学校に入学。しかし、しばらくしてGAEA1期生の先輩、里村明衣子から連絡がきた。

「『こんど仙台で新団体(センダイガールズプロレスリング=仙女)を旗揚げするからよかったら遊びにきてみない?』と軽い感じで声をかけてもらいました。それから仙女の道場にトレーナー目線で行ってみたりしましたね。そんな頃、里村さん、新崎人生社長と3人でお話する機会があったんです。そのときに『プロレスもうやらないの?』みたいな感じで聞かれて。誘われたわけではないんですけど、それをきっかけによく考えて、やっぱり私もう一度プロレスやりたいと思って、仙女に入団させていただきました」

 仙女で再デビューを果たし、リングネームを水波綾にあらためた。本来なら後輩となるところを、団体内では仙女一期生と同等に見られるようになった。GAEA時代にはいなかった同期が初めてできたのだ。これが彼女にはうれしかったという。

「GAEAでは同期がいなくてひとりだったのに、仙女で一気に仲間が増えたんですよ。もちろん同期でのケンカや揉め事とかもあったけど、辛いこともみんなで乗り越えようとか、実際、里村さんが長期欠場したときも、みんなで仙女を引っ張るんだという熱い気持ちがあったり。同期はライバルであり、仲間。それができたのが本当に心強かったですね」

 同時に、仙女にとどまらず他団体へも参戦した。なかでもWAVEへのレギュラー参戦でいままで体験してこなかったようなさまざまなスタイルを体感。さらにプロレスの幅を広げたいと、12年2月、正式にWAVEへ移籍した。若手レスラーから個性派へのジャンプアップである。

引退決断のあとに届いた米AEWからの参戦オファー

 ここで開花したのが、あこがれの小島にインスパイアされた、よりエネルギッシュなプロレスだった。アニキの愛称も板についてきた。では、いつどのようにして水波は「アニキ」と呼ばれるようになったのか。

 それは、移籍からさかのぼること2年前の10年2月13日、WAVE100回記念大会での3WAYマッチ(水波vs広田vs闘牛・空)だった。「誰が一番おもしろいか」を判定するコミカルマッチで、空が水波の股間を蹴り上げた。悶絶する水波に対し、空は「オマエ、ついてるだろ!」と指摘。男子なら急所だが、おもいきり蹴られたのだから女子でも痛いものは痛い。しかし、空は「今日からアニキと呼ばせていただきます!」とアピール。以後「アニキ」として定着することとなる。つまり、アニキは下ネタから誕生したのだ。そして、「アニキ」は強くてハイテンションな水波にとって欠かせないキーワードとなっていく。

 そんな水波だが、いつしか引退を考えるようになった。「もうやり切ったかな」との思いが募ったからで、18年には「翌年いっぱいで引退します」と一部関係者には伝えていた。が、ゴールを決めた後、アメリカAEWから旗揚げ戦(19年5月25日)への参戦オファーが届く。

「海外への興味もないし、どんなに大きなところかも知らなかったので、思い出作りの卒業旅行感覚で行ってみたんですよ。ところが、行ってみたら考え方が180度変わって。あんなに大観衆の前で初めて試合をしたし、スケールの大きさに圧倒されました。レスラーたちは『今日からオレたちがプロレスの歴史を変えていくぞ!』っていう意気込みなんですよ。思い出作り感覚の私とは視点の広さが全然違う。しかもレスラー側だけでなく、見てる側もスケールがデカいんですよね。これでホントにやめていいのかなって、日本に帰ってきて悩みました。このままやめたら後悔するかなって。いろいろ悩んだ結果、ここでやめちゃダメだと思って、ごあいさつさせていただいた方々に『引退をやめます』と伝えさせていただきました」

 結果、フリーとして現役続行を選んだ水波。AEWには21年2月から4月、10月から12月にかけても参戦。フロリダを拠点にアメリカ全土で試合をした。志田光の保持するAEW女子王座にも挑戦した。

「テレビの生放送もあって、お客さんの前でやるのは生と一緒なんだけど、ビッグマッチの生放送だとそれとはまた別の緊張感がありましたね。アメリカは広いし、行く先々で気候の異なるサーキットは自分にとって過酷だったんですけど、日本でできないことをやるのはモチベーションにもなりますし、日本でやってきたことをAEWで見せたり、AEWで学んだことを日本でやると、日本とアメリカのどちらも相乗効果で上がっていくような感じがします。そういった意味でもすごく充実してるし、自分自身の伸びしろを感じてますね」

 最近の主戦場でもあるSEAdLINNNG、仙女、OZアカデミーではシングル、タッグを問わずいずれもタイトル戦線に絡んでいる。今年に入ってからは東京女子のビッグマッチに2度参戦、若手の壁として君臨した。上がる団体によって見え方が異なり、また同時に、水波綾は水波綾のキャラクターを貫いている。また、今年6月、小島がNOAHマットでGHCヘビー級王座を奪取したことで、「どんな新人よりも元気でいてやる!」とあらためて刺激を受けた。

 GAEA解散時に一度引退し、3年前には密かに決めていた引退を心の中で撤回した。彼女を2度引き留めたプロレスには、いったいどんな力があるのだろうか?

「プロレスって不思議なパワーがあるんですよね。私自身、お客さんとして見に行ってもファンのときみたいに元気をもらえますから。プロレスってパワースポットかなって思います」

 プロレスから元気をもらい、プロレスで元気を与える。水波はこれからも“ピープルズアニキ”として、女子プロ界を盛り上げていく。

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