福原直英、フジテレビは「居心地がよかった」 局アナ時代に身に着けた経験とスキル

今年3月にフジテレビを退社したフリーアナウンサーの福原直英。現在は武豊騎手の個人事務所と業務提携し、大好きな競馬を中心にさまざまな番組やイベントに出演している。1992年に入社してから30年間を過ごしたフジテレビ時代とアナウンサーの仕事に対する姿勢を聞いた。

フジテレビへの思いも明かした福原直英アナ【写真:荒川祐史】
フジテレビへの思いも明かした福原直英アナ【写真:荒川祐史】

現在は競馬を中心とした“第2の人生”を歩む

 今年3月にフジテレビを退社したフリーアナウンサーの福原直英。現在は武豊騎手の個人事務所と業務提携し、大好きな競馬を中心にさまざまな番組やイベントに出演している。1992年に入社してから30年間を過ごしたフジテレビ時代とアナウンサーの仕事に対する姿勢を聞いた。(取材・文=猪俣創平)

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「競馬中継の司会をしたい」と意気込み、フジに入社した福原。入社当初は、テレビで見ていた錚々(そうそう)たるアナウンサー陣や芸能人ら華やかな世界に圧倒された。「いや~、キラキラしていましたよ。タレントではなく超有名なアナウンサーが先輩社員としているんですから、不思議な感覚でした」。

 大好きな競馬番組かバラエティーに携わることを念頭に置いていたが、入社後はバラエティーだけでなく、報道番組、情報番組のリポーターなど多種多様なアナウンサーの仕事を全うした。バラエティー番組「とんねるずのみなさんのおかげでした」にも出演し、「バラバラの日にコーナー司会として収録に参加していたものが同じ日に放送されたことがあって。つまり1時間全部僕が出ていたんですよ。あのときは『これで辞めてもいい』って思ったほどうれしかったです」と思い返した。

 長年アナウンサーとして中継でのリポートやニュース原稿を読んできた福原。「基本的には、アナウンサーはしっかりとニュースを読むべきだと思っているんです」と、あるべき“アナウンサー像”を抱きながら、その難しさと向き合ってきた。

「ストレートニュースをしっかり読むことこそ、アナウンサーが目指すことだと今でも思っています。たった一つのニュースでも、『もうちょっとうまく読めたんじゃないか』とか、『もう少し違う読み方があるんじゃないか』と振り返ります。ストレートニュースだからこそ、そう思える部分があるんです。

 淡々とニュースを読む。それも難しさであり、面白さでもあったのかなと。だから、単に華々しい番組だからとか、自分の言いたいことが言えるとか、そういったことだけがアナウンサーのやりがいではなく、仕事としての意識をどこに置くかで面白さも、難易度も変わってくるという感じですね」

 原稿を読むだけでなく、司会の難しさにも直面した若手時代があった。入社試験の頃から念願だった「競馬中継の司会」に入社3年目で抜てきされた。それまでの競馬中継は前任の潮哲也さんをはじめ、俳優やタレントが司会を務めてきた。1時間の生放送とあって、毎回が「スリルとサスペンス」だった。

「それまでは生放送といっても、決められたものを決められた時間内にしゃべるとか、台本に沿って中継するものでした。それが競馬になると、レースがスタートするまでは台本を作りこめますけど、番組後半はレースの結果次第になってきます。事前に準備しきれないものなので、難しかったですね。終わったあとで『もっとああ言えばよかった』と反省していました」

 入社3年目のアナウンサーが生放送の司会を務める。失敗することがあっても、先輩アナウンサーから殊更に怒られるということはなかった。背景にはフジテレビアナウンス部(現在はアナウンス室)のカルチャーがあったと述懐する。

「多分、皆さんすごく心配されていたんだと思うんですよ。久しぶりにアナウンサーが司会になっている、しかも若いやつがなったってことで。でも、フジテレビのアナウンス部の良いところとして、萎縮させるような指導とか、辛辣(しんらつ)すぎる指摘などはなかったように記憶しています」

 そこには“ミス”があった際のアナウンサーならではの心境にも理由があるのではと言う。

「何かしら失敗したら、自分で分かるわけですよ。生放送で『やっちまった』って、本人が一番分かるんです。だから、ミスをしたら『そこを自分で考えて直しなさい』という空気もあるんです。その意味では温かく見守ってもらったと思います」

 若手時代と比べても現在のアナウンス室の雰囲気はさほど変わらなかった。「ギスギスした感じはなかったですよ、居心地がよくて。会社には感謝しています」と、フジへの思いも明かした。

競馬を中心とした第2のアナウンサー人生を歩む福原直英【写真:荒川祐史】
競馬を中心とした第2のアナウンサー人生を歩む福原直英【写真:荒川祐史】

競馬中継の司会だけでなく実況やリポートも数多く担当

 競馬中継の司会を志していた福原は、競馬のレース実況も担当した。しかし、当初は実況を目指したわけではなかった。「競馬に携わりたいってことはスポーツアナウンサーのカテゴリーに入ることになるんです。でも、『実況アナウンサーになりたい』じゃなくて、『司会をやりたい』って言っていたんです。でもそれまでのアナウンス部では、競馬志望=スポーツ実況でした」。

 スポーツ実況担当のアナウンサーは土日ともなると競馬の他に野球やゴルフなどの種目が重なり、慢性的に人が足りなくなる。「そのような事情もあって、当時チーフだった堺正幸アナウンサーから『実況もやりなさい』と言われました。そうしないと戦力になりませんから」。

 当時は「スキルを含めてできると思っていなかった」というが、訓練を重ねて中継内の実況も担当することに。日本ダービーは18年から4年間担当した。

 競馬場からのリポートも担当した福原にとって、レースを終えた競走馬たちが騎手とともに戻ってくる検量室の前が“お気に入り”だという。「馬の様子は素人だから分からないですが、迎える人たちの様子、そして馬の背にいる騎手が開口一番何を言うのか、それをこちらも緊張しながら待つのがたまらないですね」。

 現地でリポートを務めた12年の天皇賞・春での出来事。ビートブラックの後塵を拝した三冠馬・オルフェーヴルの一戦は、番組としても“オルフェーヴル推し”で放送していた。福原はレース直後の検量室前でオルフェーヴルの関係者からコメントを取ることが使命だった。

「オルフェーヴルはまさかの大敗を喫したんです。時間がたてば記者の囲み取材に答えてくれるでしょうが、それでは放送に間に合いません。そこで、一か八かでマイクをディレクターに預けたまま芝コースとの境目で馬を待つ池江泰寿調教師の元へ駆けつけたんです。『先生、どうしちゃったんですかね?』と声をかけると一言『どうしたんでしょうね……』と、話していただきました」

 コメントを取り、放送時間ギリギリのところで現場からの中継という使命を果たした。しかし、そこには葛藤もあった。

「当然、池江調教師も大ショックでしょう。そんな状態で何かを喋らせるというのは、人として良くないんじゃないかという葛藤もあるわけです。でも僕は仕事でその現場にいる。伝えるというミッションを負っています。オルフェーヴルが勝とうと勝つまいと何らかの情報は伝えないといけないわけで、それが『どうしたんでしょうね、のあとは無言でした』というリポートになりました。ただ池添謙一騎手の何とも言えない表情を見たところで、これはもう何も聞けないなと感じました。それにディレクターも『早く戻れ』と合図を出していましたから」

 関係者との信頼関係を重んじながらアナウンサー、リポーターとしての務めを全うしてきた福原。今後はフジ時代に培った経験やスキルを生かし、愛する競馬を中心とした“第2の人生”を歩んでいく。

□福原直英(ふくはら・なおひで)1967年7月24日、東京都出身。92年、早稲田大学政治経済学部卒業後にフジテレビ入社。アナウンサーとして「めざましどようび」の総合司会や数々の情報番組、バラエティー番組を担当。「スーパー競馬」、「みんなのKEIBA」、「BSスーパーKEIBA」など競馬番組の司会や実況を務める。2022年3月にフジテレビを退社。現在は武豊騎手の個人事務所「テイク」と業務提携を結びながらフリーアナウンサーとして活動。

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猪俣創平

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