【緊急連載】志村けんのコメディー人生(2)「ザ・ドリフターズ」長いトンネルを抜けたブレイク

現代の喜劇王、生粋のコメディアンとして活躍中だった志村けんが突然に逝ってしまった。享年70。先輩であり盟友の加藤茶が“日本の宝”と言い、後輩の爆笑問題が“みんなが遺族”と表現して哀悼の意を表している存在。あまりにも大きな喪失感は、その年齢や急逝となってしまった経緯はもちろんのこと、老若男女から愛され、芸能界の後輩たちからも慕われた芸風や人柄によるものだろう。なによりバリバリの現役であっただけに、とてつもない悲しみ、現実を受け入れられない気持ちは国民の総意と言っても過言ではない。

1980年に発売された「『ヒゲ』のテーマ」アナログジャケット【提供:鈴木啓之】
1980年に発売された「『ヒゲ』のテーマ」アナログジャケット【提供:鈴木啓之】

志村にとって最も辛い時代だったかもしれないドリフ加入時

 現代の喜劇王、生粋のコメディアンとして活躍中だった志村けんが突然に逝ってしまった。享年70。先輩であり盟友の加藤茶が“日本の宝”と言い、後輩の爆笑問題が“みんなが遺族”と表現して哀悼の意を表している存在。あまりにも大きな喪失感は、その年齢や急逝となってしまった経緯はもちろんのこと、老若男女から愛され、芸能界の後輩たちからも慕われた芸風や人柄によるものだろう。なによりバリバリの現役であっただけに、とてつもない悲しみ、現実を受け入れられない気持ちは国民の総意と言っても過言ではない。

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 高校卒業を間近に控えた1968年2月、ザ・ドリフターズのいかりやの自宅をいきなり訪ね、約1年半にわたってボーヤを務めるが、「8時だョ!全員集合」スタート直前に脱走。72年、ボーヤ仲間だった井山淳と“マックボンボン”を結成し、メンバーを代えて活動を続けるも、結局成功を掴めず解散。志村はボーヤからの再出発を決意して再びいかりやの元へ。

 志村にうれしい話がもたらされる。ちょうど引退話が出ていた荒井注の後釜にという信じられない朗報である。メンバーチェンジ問題にいかりやが頭を痛めていた矢先のタイミングだった。かくして1974年4月1日にドリフの新メンバーとなった“志村ケン”(当初は片仮名表記だった)であったが、体を張ってコントに打ち込むも客の反応は冷たく、空回りが続いた。それまで築かれていたドリフの揺るぎない人気。脱退時に絶好頂だった荒井に代わるポジションは、若い志村にはあまりにも荷が重すぎたのだろう。加藤の活躍もあって番組は相変わらずの人気ではあったが、新生ドリフの未来は危機に瀕していたのだ。新人コメディアンの志村にとって最も辛い時代だったかもしれない。

 志村が加入して1年少し経った1975年、いかりやの申し出により7月と8月の2か月間活動を休止。番組は過去のVTRを編集した傑作選が放送された。そのこともあってか、10月にスタートしたフジテレビ「欽ちゃんのドンとやってみよう!」に視聴率が抜かれる事態にも陥ってしまうのだが、そのピンチを救ったのが、遂に長い長いトンネルを抜けた志村けんのブレイクだった。1976年3月、人気コーナー“少年少女合唱隊”で初披露された「東村山音頭」が注目される。そもそも志村の地元で唄われ、三橋美智也の歌でレコード化もされていたご当地ソングが志村流にアレンジされ、お茶の間の子供たちの心を掴んだのだ。さらに「ヒゲダンス」「カラスの勝手でしょ」などが次々と支持され、1977年にスタートしたフジレビ「ドリフ大爆笑」と共に、志村はドリフの主役として快進撃を続けることとなった。

□鈴木啓之/スズキヒロユキ
アーカイヴァー。1965年東京生まれ。テレビ番組制作会社勤務の後、中古レコード店経営を経て、ライター及びプロデュース業。昭和の歌謡曲、テレビ、映画について雑誌などへの寄稿、CDやDVDの監修・解説を主に手がける。主な著書に「東京レコード散歩」「アイドルコレクション80’s」「昭和のレコード デザイン集」「昭和歌謡レコード大全」「王様のレコード」など。

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