【週末は女子プロレス♯68】対抗戦時代のニューヒロイン日向あずみの現在地 引退から13年、人材派遣会社で奮闘中

女子プロレス団体対抗戦時代の末期にニューヒロインとして頭角を現し、JWPの新世代エースとして活躍した日向あずみ。ブームから冬の時代まで経験し、2009年12月、15年間のプロレスキャリアに幕を下ろした。引退から13年になろうとする現在、彼女はどんな生活を送っているのだろう?

JWPで活躍した日向あずみ【写真:新井宏】
JWPで活躍した日向あずみ【写真:新井宏】

2009年12月に15年間の現役生活に幕を下ろした日向あずみ

 女子プロレス団体対抗戦時代の末期にニューヒロインとして頭角を現し、JWPの新世代エースとして活躍した日向あずみ。ブームから冬の時代まで経験し、2009年12月、15年間のプロレスキャリアに幕を下ろした。引退から13年になろうとする現在、彼女はどんな生活を送っているのだろう?

「いま、人材派遣会社で働いています。経理とまではいかないんですけど、お金関係の仕事を任されています。それに加えて、PURE-J(日向の古巣JWPを引き継いだ団体)のスタッフとしても働いています。団体が引き継がれるときに(コマンド)ボリショイさんから大変だから手伝ってほしいと言われて、本当に大変そうだったので(笑)。人材会社の方は社員だったんですけど、社長にこういう事情でやめたいと話したところ、あとでバイトすることにでもなるなら半分ずつやったらいいんじゃないかと言われて、両方やらせてもらってます。なので、もともといた会社の方はパートみたいな感じですね。PURE-Jの方も、基本的には財務関係を担当している感じです」

 女子プロレスに興味を持ったのは、クラッシュギャルズが好きだった姉の影響。もともとプロレスは怖くて嫌だったというが、小学生の時ときに姉に感化されて見るようになり、一時的に離れるも、姉が借りてきたビデオを見て再び熱中。自分より身体の小さな女の子が闘っている姿に衝撃を受けたのだ。

「クラッシュのときは私にはなれない世界だなと思っていたんですけど、私より全然小さい人がプロレスしていて、やってみたいなと思ったんです。ただ、当時はすでに短大生で、やるとなれば年齢的にも早くしないといけない。むしろ遅いくらいですよね。無理だとは思うけど、とりあえずオーディション受けてみようと思って、JWPを受けたんです」

 親の承諾書は内緒で姉に書いてもらった。オーディション後、しばらくして合格の通知が来た。となれば、両親に報告しなければならない。家族は娘がプロレスラーになりたいというまさかの告白に驚いた。もちろん、猛反対だ。

「運動は高1のときにソフトボール部をやめてから特にしてなかったので、自信もなかったです。スポーツとまったく縁のない生活でしたから、まさか受かるとは思ってなくて。両親にも反対されましたし、親戚まで呼び出されて家族ぐるみで説得されました。ただ、『こんな私が続けられるわけがないでしょ、とりあえずやらせてみて』と言ったら、『それもそうだね』『諦めてすぐに帰ってくるだろう』って。それで、『とりあえず行ってきなさい』って許してもらえて、結局15年やったんですけど(笑)」

 スポーツから離れてはいたものの、本来身体を動かすことは好きだった。また、同期が何人もいたことが、団体生活で練習を続けていく上で大きかったという。

「スクワットからして練習はつらかったです。でも同期の仲間たちがいたので、一緒に頑張れたんですよね。いろいろ教えてもらうことも楽しかったので、デビューできたと思うんですよ」

引退後は一般企業で働く日向あずみ、プロレスラーになって本当によかったと振り返った【写真:新井宏】
引退後は一般企業で働く日向あずみ、プロレスラーになって本当によかったと振り返った【写真:新井宏】

復帰については「やりたいとは思わなかったです」と笑顔

 1994年12月に同期のうち3人が同日一斉にデビュー。翌月に初勝利を挙げ、96年5月の「第1回ジュニアオールスター戦」では全日本女子プロレス田村欣子の全日本ジュニア王座に挑戦、大会ベストバウトを勝ち取った。以来、田村とは団体の枠を超えたライバルとなっていく。96年8月にはベテランと新人がコンビを組む「ディスカバリー・ニューヒロイン・タッグトーナメント」にダイナマイト・関西とともに参戦。日本武道館で2日間にわたりおこなわれたトーナメントで、最後は全女のアジャコング&田村組を破り優勝、文字通りのニューヒロインとなったのである。

 しかし、対抗戦時代は終焉を迎えJWPの集客力も落ちてきた。団体は心機一転ということか、若手選手を一気に改名。本名の久住智子から日向あずみへの変身だ。

「私は本名がいいって言ったんですけど、ダメだって一蹴されて(笑)。まあ、漫画の『あずみ』が好きだったので、久住から(日向)あずみっていうのもいいかなって。ただ、最初のうちは大変でしたね。試合中に本名で呼んじゃうんですよ。輝優優を『宮口!』って言ったり。選手同士もなかなか慣れなかったし、自分自身もなかなか日向あずみにはなり切れなかったです」

 それでも次第にリングネームは浸透。日向あずみ、輝優優、カルロス天野、倉垣翼、美咲華菜ら新世代がJWPの中心を担っていくようになる。改名から1か月もたたない99年2月には福岡晶を破りJWP最高峰の無差別級王座を初戴冠、同期で一番乗りの頂点到達だ。

 しかしながら、業界全体の沈滞ムードを底上げするには至らず、女子プロ界は細分化。NEOレディースからNEOが誕生した2000年末にはJWPが活動休止に追い込まれた。それでも活動再開の2001年2月に日向はボリショイからJWP認定無差別級王座を奪取、再スタートの希望となった。03年3月には井上京子からNEOの2冠王座を奪取し、田村と団体をまたにかけたライバル闘争が過熱。04年9月にはデビュー10周年となる日向自身の呼びかけにより、撤退していた聖地・後楽園ホール大会が再開された。06年の年末には田村vs日向の3冠戦が実現し、60分ドロー。細身の身体からは想像できないタフバウトで、底なしのスタミナを誇示してみせたのである。

 彼女の魅力は、なんといっても見かけからは想像できない爆発力、瞬発力にある。それは高山善廣をはじめ、男女混合マッチでも遺憾なく発揮されている。身体の大きい相手に猪突猛進ぶつかっていく。普段の顔(久住智子)と闘う姿(日向あずみ)のギャップが大きければ大きいほど、プロレスラー日向あずみが際立った。

「もともとすごい引っ込み思案で、自分にコンプレックスを抱いてました。試合を取り上げてもらえるのはすごくうれしいんですけど、顔とかを映されるのがすごく嫌で、アップだったりするとなんでここでアップなんか撮るんだよって思ったり(苦笑)。見られてこそなのに、そこがちょっとダメなところでしたね。試合前はどんな顔していいのかわからなくて天井を見つめてるし、試合が終わればそそくさと帰っちゃう。見られてると思うとどんな顔していいのかわからなくて(苦笑)。コメント求められても、何言ってるのか自分でもわからなくなっちゃうことも多くて(苦笑)」

 それでも試合中は闘いに集中できるからシャイな自分を忘れられた。だからこそ、プロレスラーになって本当によかったと日向は現役時代を振り返る。

「なりたかったものになれたのもあるし、人前で何かするなんて考えられなかった自分が、お客さんから試合を見て感動したとか元気が出たとか言ってもらえる。人に何か感じてもらえるなんて普通に生きてたらなかなかないじゃないですか」

 リングを下りたのは、肉体的衰えを感じ始めてきたから。当時はそんなことは微塵も感じさせなかったが、ファイトスタイルからしても実際に衰えたところを見せるわけにはいかないというプロ魂があったのだ。

 引退後は一般企業で働き、なかにはいわゆるブラック企業的なところにいたときもあったという。それでも「元プロレスラーの意地で頑張れた」と過去の経験が役立った。そのときのストレスをクリアしたのち、知人が立ち上げるという人材派遣会社に誘われ、プロレスへの理解から、PURE-Jのスタッフとして大会を手伝っている。

 いまでも日常的にプロレスと接している彼女だが、復帰を考えたことはなかったのだろうか。

「やりたいとは思わなかったです。たまにすごく面白い試合とか見ると、私だったらどんな試合するんだろうとか考えるときもあるんですけど、すぐに、後ろ受け身なんて怖くて取れないと思っちゃうんですよね(笑)」

 それでも、現在の体調はすこぶる良好とのこと。「最近ちょこちょこ運動するようになって、現役当時に一番近いところまで戻ってるんじゃないかなって(笑)。後ろ受け身また取れるかも、それでも、(復帰は)ないですよ(笑)」

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