仮面ライダー2号・佐々木剛の波乱の人生「その言葉が無ければきっと僕は死んでいた」

俳優・佐々木剛が仮面ライダー2号のレギュラー番組を卒業してちょうど50年になる。仮面ライダー人気を定着させ、変身ブームを作って社会現象になった。主人公・一文字隼人を演じた佐々木の功績は大きい。今は東京都板橋区大山東町で居酒屋「バッタもん」を経営している。取材すると、番組卒業秘話やこれまでの波乱の人生、今の思いを明かしてくれた。

仮面ライダー2号の変身ポーズを披露してくれた佐々木剛【写真:ENCOUNT編集部】
仮面ライダー2号の変身ポーズを披露してくれた佐々木剛【写真:ENCOUNT編集部】

レギュラー卒業から50年 板橋区大山東町でファンの聖地・居酒屋「バッタもん」経営

 俳優・佐々木剛が仮面ライダー2号のレギュラー番組を卒業してちょうど50年になる。仮面ライダー人気を定着させ、変身ブームを作って社会現象になった。主人公・一文字隼人を演じた佐々木の功績は大きい。今は東京都板橋区大山東町で居酒屋「バッタもん」を経営している。取材すると、番組卒業秘話やこれまでの波乱の人生、今の思いを明かしてくれた。(取材・文=中野由喜)

「最初の仮面ライダーで本郷猛を演じた藤岡弘、くんが大ケガをして2号の僕に代わったわけですが、正直言って当時、仮面ライダーをやるスケジュールはありませんでした。大阪の朝日放送で『お荷物小荷物』の撮影が金~日曜まであって、月~木曜までは東京で朝ドラ『繭子ひとり』を撮っていましたから。でも半日でもいいからということでオファーがあり『柔道一直線』でもお世話になったプロデューサーの平山亨さんへの義理があるから受けることにしました」

 仮面ライダー2号をやるにあたり一つ条件を提示した。それは藤岡が復帰したら主役の座を藤岡に返すこと。

「降りるときは大変でした。僕がやってから視聴率は30%台までアップしたし、変身ブームも。東映は2人ライダーでやりたい意向を持っていましたが、約束だからと僕は降りました。理由は藤岡くんで始まった番組だからです。あの時点で2人ライダーになったら僕の看板は下りません。頭の看板を藤岡君に返したかったんです。嫌で降りたわけではないんです。だから降りてからのオファーは1本も断ったことはありません。ゲスト出演だけでも34本くらい出ています」

 朝ドラにも出演する人気俳優。多忙だったことは分かるが、当然、周囲から「せっかく人気を得たのにもったいない」という声が上がったという。

「藤岡くんとは劇団NLT俳優教室で同期です。彼がけがした後に番組を取ってしまうのは忍びなかった。同期の人間が初めて取った主役の番組です。彼が元気に帰ってきて返せたのは良かったと思っています」

 男気と優しさ。どこか正義のヒーローのようだ。番組を降りても仕事は順調で、必殺シリーズや大河ドラマ「風と雲と虹と」など数多くの作品に出演した。順風満帆の生活だった。ところが1982年2月に一変した。

「家で火事を出してしまいました。全身にやけどを負い、生きているのが不思議だと言われました。顔にも重傷のやけどを負い、役者を断念しなくてはならない状態になりました。家庭も崩壊しました」

 住む家を失い、俳優の仕事も失った佐々木に医療費や生活費が重くのしかかった。妻子との暮らしも失った。

「長い間ホームレスをやりました。と言っても定住する部屋を借りない状態ですが。ちり紙交換や竹竿売り、焼き芋屋などをやって生活していました。あちこちに行き、竿屋をやっているときは東北まで足を延ばしました。でも青森の手前までです。朝ドラの『繭子ひとり』で演じたのが八戸出身の役。もし誰かに気付かれたら嫌だったからです」

 苦しい生活を救ってくれたのは友達だった。

「友達はありがたいものです。新国劇の研究生の先輩だった石橋正次。僕の口から芝居の話が出るまで10年ほど待ってくれました。寂しくなったら石橋の家に行って泊めてもらっていましたが、芝居の話は一切しませんでした。ただ、僕が東北で美しい景色を見て、こんな景色を背景に芝居ができたらいいなと思い、その気持ちのまま東京に戻って石橋に話したときがあって、そのときに『芝居、やろう』と言ってくれたんです。あのとき、その言葉がなければきっと僕は死んでいたと思います」

 石橋に感謝するとともに石橋の妻にも感謝を述べた。

「正次の奥さんにも感謝です。正次とは友人。でも奥さんは違うじゃないですか。石橋邸の前に竹竿屋の車が一晩止まっていたら近所から何か言われていたかもしれません。石橋夫妻は売れているときも落ちぶれたときも変わらずに接してくれました」

 1991年に石橋ら友人の応援を得て舞台「会津士魂外伝・山本覚馬」で俳優に復帰した。

「大変だったのは再起してから。僕は稽古を一切、休みませんからその間、無収入です。それが約6年続き、その後、芝居だけで食べていけるようにと日光江戸村に行き、常設舞台の若い俳優に演技指導をしました。空気もいいし、いいところでした」

 居心地のいい土地で暮らしていたとき、九州の仮面ライダーファンと出会い、ある言葉をかけられた。

「『今でもファンです』。涙を流して大の大人に言われました。『今でも』と。ここで終わってはファンに失礼だと思い、もう1回、生き直そうと江戸村を辞めました」

 居酒屋「バッタもん」を開業して10年になる。店内には仮面ライダーにちなんだグッズが飾られるなどファンにはたまらない聖地。

「開業したのはファンと接する場を作るため。お客さんの99.9%は仮面ライダーファン。僕と話したいファンは、話しているだけで、料理を注文しないので売り上げが上がらないです(笑)。僕はヒーローを演じているだけでしたが、僕が今、たとえば罪を犯したら俺たちの50年を返してくれと言われても返せません。だから一文字隼人の精神を継いでやろうと思います。最低限、手錠をかけられない生き方をしようと思っています(笑)」

 今の仕事は店が中心のようだ。コロナ禍で大変な状況。あえて佐々木の今の肩書は何か聞いてみた。

「今まで1度も俳優を引退したと言ったことはありません。俳優の仕事が入ると店を休まないといけない。今は店を立て直すのが中心ですから」

 数年前、昔、世話になった人から頼まれた際、店が休みの月曜と火曜に俳優の仕事をしたことを明かしてくれた。今も俳優・佐々木剛として生きている。最後に人生を振り返ってもらうと目指す生き方も話してくれた。

「生きることは人に対してどれだけ優しくできるかということ。僕は人の優しさに、たとえば石橋正次やファンに支えてもらって今があります。彼らの優しさより、そして今まで支えてくれた人よりも僕の方が優しくならないと棺桶に入れません。まだまだですが、そう思って生きています。波乱万丈と言われますが平穏な生活をしたかったです」

□佐々木剛(ささき・たけし)1947年5月7日、新潟県生まれ。新発田高校卒業後、俳優を目指して上京し、東宝芸能学校に入る。その後、劇団NLT俳優教室、俳優小劇場付属養成所などを経て新国劇にテレビ専属俳優の正劇団員として入団。1968年に本名の福井憲雄でNHK「開化探偵帳」で俳優デビュー。1970年にTBS系「柔道一直線」に出演。その際、芸名を佐々木剛に変更。同年のTBS系「お荷物小荷物」で人気俳優に。1971年に仮面ライダー2号として「仮面ライダー」に出演。1982年に東京のアパートの火事で顔などにやけどを負い俳優業から遠ざかるように。その後、石橋正次らの協力もあって俳優に復帰。2012年には都内に居酒屋「バッタもん」を開業。

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