【映画とプロレス】初代タイガー、ライガーもお世話になったウェイン・ブリッジさん逝く 「007」のスタントとしても活躍

1960年代から80年代にかけて英国のプロレス黄金時代を支え、新日本プロレスや旧UWFにも参戦した名レスラー、ウェイン・ブリッジ(本名ビル・ウェイン・ブリッジス)が3月9日、腎臓疾患により死去した。今回はブリッジさんと生前に親交があったプロレスライターの新井宏氏が、故人の生前の功績を讃え、レスラーとしての功績、そして映画界での"隠れた功績"と活躍を紹介する。

1980年に英国・ウェンブリーアリーナで行われた大会ポスター【写真提供:新井宏】
1980年に英国・ウェンブリーアリーナで行われた大会ポスター【写真提供:新井宏】

数々のレスラーを育てた親日家は新日本・旧UWFに参戦

 1960年代から80年代にかけて英国のプロレス黄金時代を支え、新日本プロレスや旧UWFにも参戦した名レスラー、ウェイン・ブリッジ(本名ビル・ウェイン・ブリッジス)が3月9日、腎臓疾患により死去した。今回はブリッジさんと生前に親交があったプロレスライターの新井宏氏が、故人の生前の功績を讃え、レスラーとしての功績、そして映画界での”隠れた功績”と活躍を紹介する。

 ブリッジは水泳選手として活躍し60年のローマオリンピックに出場。64年の東京オリンピック参加も内定していたものの、夫人の出産に立ち会うため辞退。4年後の出場をめざしていたが、世界ミッドヘビー級王者マイク・マリノの薦めによりプロレスラーに転向した。当時のブリッジは水泳と並行してアマレスもおこなっており、マリノ、“カール・ゴッチが一度も勝てなかった男”バート・アシラティがその才能を見込んで指導していたのである。

 64年にデビューしたブリッジはヘビー級戦線のベビーフェースとして頭角を現わし、79年12月、ロイヤル・アルバート・ホールにてスパイラス・アリオンを破り、念願の世界ヘビー級王座(ジョイントプロオーション版)を初奪取、ビル・ロビンソンが去った後のヘビー級戦線でトップに立った。以後、同王座は通算で4度獲得。“ビッグ”ジョン・クイン、ケンドー・ナガサキ(オリジナル/ピーター・ソーンリー)らとの闘いを通じ、ブリッジの代名詞的タイトルとなったのだ。また、タッグではトニー・セントクレアー、ピート・ロバーツ、スティーブ・ベイダーらとのチームで活躍している。

 初来日は旗揚げから半年後の新日本プロレス「ニュー・ゴールデン・シリーズ」(72年9月)だった。以後、73年9月「闘魂シリーズ」、82年11月「第3回MSGタッグ・リーグ戦」、83年11月「第4回MSGタッグ・リーグ戦」に参戦。85年1月には旧UWFの「サンライズ・ウィークス」に登場した。来日はすべて英国で知り合ったカール・ゴッチ推薦によるブッキングだった。

 88年に世界ヘビー級王者のまま引退し、ベルトを返上。息子と娘婿を亡くす悲劇を乗り越え、ボディービルダーのサラと再婚した。引退後は現役時代からおこなっていた4軒のパブ経営と並行しながらサラ夫人のアドバイス役も買って出た。すると夫人は英国チャンピオンとなり、夫婦で英国ボディービル界に尽力するようになる。同時に、ケント州ホートンカービーで経営するパブをプロレスラー同窓会「レスリング・リユニオン」の会場として提供。これは毎年8月に開催される恒例のイベントで、もう20年以上も続いている。

 また、ブリッジは大の日本好きとしても知られており、新日本から修行にきた選手達の世話役もつとめていた。サミー・リー(佐山サトル/初代タイガーマスク)、クイックキック・リー(前田日明)、フジ・ヤマダ(獣神サンダー・ライガー)らを自身の経営するパブに居候させていたのである。これはすべて来日時に受けたおもてなしへの感謝とのこと。その気持ちは筆者が訪ねた16年6月も変わらなかった。遡れば96年にはみちのくプロレス勢が英国遠征、そのとき顔を出してくれたのもブリッジで、4代目タイガーマスクの姿から初代タイガーになる前の佐山サトルの思い出話を聞かせてくれたものだ。

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