【オヤジの仕事】父子家庭だった俳優・秋野太作さんの父親が教えてくれた人生で気をつける3つのこと

1960~1970年代にドラマ、映画の「男はつらいよ」シリーズや時代劇「必殺仕掛人」(TBS)、青春ドラマ「俺たちの旅」「俺たちの朝」(日本テレビ)などで活躍していた俳優・秋野太作さん(77)。還暦を過ぎてもバラエティ番組「踊る!さんま御殿‼」(日本テレビ)などで元気な姿を見せてきた。そんな秋野さんは父子家庭に育った。秋野さんに父・芳太郎さんのこと、父子家庭ならではの話を聞いてみた。

父親のことが大好きだったという秋野太作さん【撮影:山田隆】
父親のことが大好きだったという秋野太作さん【撮影:山田隆】

両親どちらとも離れて暮らした幼少時代

 1960~1970年代にドラマ、映画の「男はつらいよ」シリーズや時代劇「必殺仕掛人」(TBS)、青春ドラマ「俺たちの旅」「俺たちの朝」(日本テレビ)などで活躍していた俳優・秋野太作さん(77)。還暦を過ぎてもバラエティ番組「踊る!さんま御殿!!」(日本テレビ)などで元気な姿を見せてきた。そんな秋野さんは父子家庭に育った。秋野さんに父・芳太郎さんのこと、父子家庭ならではの話を聞いてみた。

 僕の父親は明治42年(1909年)の生まれで、僕はオヤジが35歳のときの子供なんだ。きょうだいは複雑でね。4歳年下の弟が1人いるんだけど、オフクロは前の夫を戦争で亡くして僕の親父とは再婚だったから、父親の違う兄が2人。それから、オヤジが再婚したときに継母が連れてきた妹が1人いるんだ。戦中戦後、僕が生まれた下町・上野では、学校のクラスの半分くらいが片親や両親ともにいない複雑な事情のある子だったから、自分だけが特殊だとか悲観的に思ったことはなかったけどね。

 僕は生まれて2年後の1945年3月、オフクロと2人、オフクロの実家のある大分へ疎開した。ところが、オフクロは結核になってしまってサナトリウムに入り、僕はオフクロの最初の嫁ぎ先で、両親ともにいない家で父親の違う兄弟たちと育ったんだ。僕が4歳のとき、オフクロがもういけない、東京の家族のもとでっていうんで、汽車の座席に戸板を渡して横になったオフクロと、オヤジのいる東京へ戻ったんだけど、オフクロは1カ月後に東京・巣鴨のバラックで死んじゃった。

父親に会えると嬉しくて飛びついた

 それから、僕とオヤジの生活が始まった。といっても、オヤジは戦前、第一銀行(現・みずほ銀行)の行員で、戦後は第一銀行専門の印刷会社を根津で起こした。朝から晩まで指を真っ黒にして働いていたから、子供の世話ができない。それで、僕は巣鴨の長屋のよその家にあちこちあずけられて育ったんだ。最初にあずけられたのは、両親と子供5人が一間に暮らしているような家。子供ながらに気を遣ってね。食事のときはまだお腹がすいていても「お腹いっぱい」なんて遠慮してた。たまにオヤジが顔を出すと、嬉しくて飛びついてたよ。

 土曜日になると、都電に乗ってオヤジのところへ行って一緒に過ごした。外食券食堂(国が発行した外食券で食べる食堂)で一緒にご飯を食べて、ひとつ布団に寝て。でも、オヤジは僕が寝た後、布団を抜け出してどこかへ出かけてたね。それがわかってたから、早く寝たふりするんだけど、オヤジがいなくなると真っ暗でシーンとなって、冬なんて寒いし、怖くて怖くて、オフクロに幽霊でもいいから出てきてほしかったよ(笑)。翌日、お小遣いをもらって映画を観てまた長屋へ帰る、そんな生活をしていたんだ。

 小学校に上がるとき、オヤジがひらがなで名前を書けるよう教えてくれたけど、僕は学校行っても勉強しないし、宿題もしない。試験のときだって名前書くだけだったからずっと0点。ひどいだろ(笑)。オヤジは余裕がなくて、子供の世話まで手が回らなかったんだ。10歳のとき、大分の田舎にあずけられていた4歳下の弟が就学年齢になるんで上京してきて、一緒に暮らし始めた。

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