夏川りみ、東京で挫折し沖縄に戻った過去 再デビューまでのスナック時代と訪れた転機

2022年、本土復帰50周年を迎えた沖縄。ひと口に50年と言っても世代や環境によってその思いはさまざまだが、地元への愛と歴史への敬意は変わらない。石垣島出身の夏川りみにとって沖縄は歌手・夏川りみが誕生した場所であり、歌手生命の危機から救いの手を差し伸べてくれた場所でもある。そんな沖縄の風にのせて3年ぶりのオリジナルアルバム「会いたい ~かなさんどぉ~」を完成させた夏川が愛する地元について語った。

夏川りみ【写真:荒川祐史】
夏川りみ【写真:荒川祐史】

夏川りみが振り返る地元・沖縄の日々

 2022年、本土復帰50周年を迎えた沖縄。ひと口に50年と言っても世代や環境によってその思いはさまざまだが、地元への愛と歴史への敬意は変わらない。石垣島出身の夏川りみにとって沖縄は歌手・夏川りみが誕生した場所であり、歌手生命の危機から救いの手を差し伸べてくれた場所でもある。そんな沖縄の風にのせて3年ぶりのオリジナルアルバム「会いたい ~かなさんどぉ~」を完成させた夏川が愛する地元について語った。(取材・文=福嶋剛)

誰もがアッと驚く夢のタッグ…キャプテン翼とアノ人気ゲームのコラボが実現

――夏川さんが生まれ育った石垣島は、小さい頃はどんな風景が広がっていましたか?

「はい。当時は結構おてんば娘で(笑)。ドラム缶の上に乗ってサーカスみたいに転がして遊んでいたら、家のすぐ裏にあった市場から行商のおばちゃんたちが魚を入れた大きなザルやカゴ(=バーキ)を頭の上にのせて売りに来るのをよく見ていました。今ではなつかしい光景ですね」

――小さな頃から歌が好きだったとお聞きしました。

「最初はテレビやラジオから流れてくる80年代の歌謡曲を毎日家で歌っていました。そのうち近所の人たちに歌を聴いてもらいたくて、妹と2人で端から端まで出張ライブをはじめたんです(笑)。6歳か7歳の頃にそんなに歌いたいんだったらと言って親が白保(しらほ)という町のカラオケ大会に連れて行ってくれて人前で初めて歌いました」

――そこからお父さまによる歌のレッスンがスタートしたんですね。

「父は民謡を少しやっていたので演歌を教えてもらいました。私は当時、中森明菜さんが大好きだったんですけど、『のど自慢大会に出るなら演歌がいい』と父に言われて演歌を歌い始めました」

――お父さまの指導は厳しかったですか?

「厳しかったです。気持ちが入っていない歌い方をすると『もうやめろ!』ってすぐに叱られて途中で何度も辞めたいと思いました。でもいつか歌手になって紅白歌合戦に出るのが小さい頃からの夢でしたから」

流行りの音楽はすべて息子から教わるという【写真:荒川祐史】
流行りの音楽はすべて息子から教わるという【写真:荒川祐史】

10代でメジャーデビューするもヒットに恵まれず引退

――そして演歌歌手としてデビューされました。

「はい。中学3年生で東京に出てきて、デビューは16のときです。小さい頃から夢をかなえるなら東京だと思って出てきたのでホームシックにはならなかったです。親にも『何があっても帰ってくるな』って言われましたから」

――メジャーデビューはご両親も喜ばれたのでは?

「もちろんです。でも3枚シングルを出させてもらったんですが、キャンペーンで各地を回っても誰も立ち止まってくれなくて。歌っても歌ってもちゃんと聴いてくれる人がいなくて、私の歌は人には届かないんだっていうつらさに耐えられなくなって私の方から『辞めます』って当時の所属事務所に伝えました」

――それで沖縄に戻ったんですね?

「とりあえず私の原点の沖縄に戻ってリフレッシュしようと思いました。そしたらちょうど姉が那覇でカラオケスナックをやっていたので、毎日お酒も飲めるし、歌も歌えるし(笑)。気楽に考えようって」

――お姉さまのお店を手伝っていたんですか?

「そうです。あるとき、沖縄ののど自慢大会の司会をされていた方が、私が那覇にいるという情報を聞いて、『もったいないから1回会おう』ってお店に電話がかかってきました。そこから琉球放送さんのラジオのお仕事をさせてもらうことになって、『じゃあ今日はマライア・キャリーを歌わせてもらいます』、『森昌子さんの越冬つばめを歌います』と言って各地で出張カラオケをしていたんです。東京で失敗して戻ってきたこともみんな分かっているんですけど『再デビューに向けてまた頑張ってね』って明るく応援してくださって。

 沖縄のタクシーの運転手さんも面白いエピソードがあって、観光客に『どんなところに行きたいですか?』と最初に聞いて『お酒が飲める場所』と答えたら、次に『カラオケはお好きですか?』って聞くそうです。そこで『好きだ』と言ったら『歌の上手な人がいるスナックがあるから、そこに行ってみます?』と言って繁華街ではなく、姉のスナックに案内してくれたそうです(笑)」

――すごいですね! 観光客がどんどんお店にやってきたんですね(笑)。

「お店に来たお客さんに『何を歌いましょう?』ってリクエストをもらって、それを歌うと喜んでくれて、またお店に来てくれるんです。反対に私が知らない歌をリクエストされたら『次に来るときまでに覚えておきますから』と言って、ちゃんと覚えてお客さんが次に来たときにその歌を披露するんです。そうやってお客さんから宿題をもらって毎日いろんな歌を覚えていったんです。

 そんなあるとき、以前私をスカウトしてくれた人からたまたま連絡があって『もう1回挑戦してみる?』って。それがきっかけで99年に再デビューが決まりました。そこで『夏川りみ』という新しい芸名を沖縄のラジオで発表したんです。だから『夏川りみ』を1番最初に知ったのは沖縄のみなさんなんです」

偶然出会った「涙そうそう」で大きく変わった運命

――さらに偶然が重なり「涙そうそう」に出会ったとお聞きしました。

「たまたま家でテレビを見ていた時に流れてきたBEGINの歌う『涙そうそう』に出会ったのがきっかけでした。もし、どこかに飲みに出かけていたらあの曲の出会いも、今の夏川りみもなかったです」

――そして今から20年前の2002年、「涙そうそう」で念願の紅白歌合戦に初出場を果たしました。ちょうど沖縄本土復帰30周年にあたる年でBEGIN、夏川りみ、DA PUMPが一堂に出場を果たしました。

「BEGINのメンバーは姉の同級生でしたし、DA PUMPの当時のメンバーも石垣出身なんで、石垣島ではいたるところに横断幕が掲げられていたそうで、大みそかは市役所の前に巨大スクリーンを設置して、そこにみんな集まって紅白を見たという話を聞きました。

 子どもの頃からの夢だったのでとってもうれしかったですし、地元に戻ったときは、本当にみんな喜んでくれて幸せでした。『涙そうそう』に出会っていなかったら夏川りみはここにいなかったわけで、森山良子さんとBEGINには今でも感謝しています」

――那覇のスナックで歌っていた頃のお客さんもきっと喜んでいるでしょうね?

「当時の常連さんからデビューした後にメッセージをいただいたり、今でも沖縄で歌うときは見に来てくださるんですよ」

――その後、那覇のスナックは?

「今は私の代わりに姉妹が歌っています。……“歌わされている”と言った方がいいのかもしれません(笑)。『夏川りみよりも私たちの方が“涙そうそう”を歌っているよ』って言ってましたから(笑)」

――夏川さんは沖縄という土地とそこに住む皆さんからいつも力を受け取っているんですね?

「沖縄には『いちゃりばちょーでぃ』(=一度会ったらみな兄弟)という方言があって、本当にみんなが協力し合いながら生活しているんです。そういう沖縄だからこそあのとき、助けてもらったと思っています。ここ数年はコロナ禍で大変な思いをしている人もたくさんいらっしゃいますが、地元に帰ると『なんくるないさぁ』(=なんとかなるさ)ですよね。それなりに楽しみ方とか生きがいを見つけるのが上手なのも沖縄だと思います」

――それが沖縄の強さでもあると?

「そうなんです。戦争中に防空壕の中に入っていても缶を使って三線を作って、音楽で人を癒していたという話を昔の人からよく聞きました。もし敵に見つかったら終わりなんですが、防空壕の中でも楽しくやっていたっていう話を聞くと、悲しい出来事もたくさんありますが、どんなときでも音楽や芸能が沖縄の人に元気を与えているんだって感じます。だから今があるんだなってあらためてそう思います」

□夏川りみ 沖縄県石垣市出身。1999年、夏川りみとしてシングル「夕映えにゆれて」でデビュー。2001年、3rdシングル「涙そうそう」をリリースし、大ヒット。116週連続チャートイン。02年、紅白歌合戦に初出場し、以降5年連続出場を果たす。03年「童神」で第45回日本レコード大賞金賞受賞。04年「愛よ愛よ」で第46回日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞。21年11月、沖縄県世界自然遺産大使に任命される。22年6月22日ニューアルバム「会いたい ~かなさんどぉ~」発売。6月25日より全国ツアーがスタート。

夏川りみオフィシャルサイト https://www.rimirimi.jp/

次のページへ (2/2) 【写真】夏川りみが小学校生だった頃の1枚…カラオケ大会でメダルをぶら下げて熱唱
1 2
あなたの“気になる”を教えてください