【花田優一コラム】「いいね」訴訟から考える同調圧力 いじめを黙認したと同じ
いじめられた子は首謀者の顔も名前は忘れない SNSの「いいね」も同じこと
これを教室内のいじめだと仮定しよう。そのとき、いじめはいじめている人だけの罪ではない、その空間にいる全ての人間が罪人だ。見て見ぬ振りをするというのは、いじめられている当事者にとっては「いいね」と黙認していることと同じなのだ。
黙っているのだから何も悪くないじゃないか、ということではない、その教室内にいて止めないということは、止めないという行動を起こしているのと同じであり、いじめの圧力の一部となっている。いじめられた子はもちろん首謀者の顔も名前は忘れないだろう、それと同時に、いじめられている自分を、見て見ぬ振りをした人の顔も覚えているものだ。
SNSの「いいね」も同じことだと思う。「いいね」を押した大抵の人間は、通り過ぎるように軽く押しただけであろうが、誹謗中傷された当事者にとって、1個の「いいね」が増えることは、同調圧力を増幅させる大きな意味を持つことなのである。
正直、晒される恐怖を経験したことのない人に、どこまで分かってもらえるかは分からない。ただ一つ言えることは、SNS上であれ教室内であれ、特定の誰かが誰かに攻撃したとき、その空間の圧力の一部になったものは、人に傷を負わせているということだ。
今までのような電話、手紙、近所づきあい、それらが変化し、SNS、仮想現実、宇宙、そんな夢だった世界がすでに生活に混じり合う現代において、僕たちの生き方も見直さなくてはならないと思う。今回の判決が、今後どのような影響を及ぼすかは分からない。それでも、このような議論が日々起こるべきだと思っている。
戦争が当たり前だった時代、皆、戦争を疑わない同調圧力の中にいた。そして、戦争で何も残らなくなったときに、あれは間違っていたと気付く。でも、もうそれではダメだ。日々、自分が何かに飲まれていないか、何かに盲目になっていないか、そんな風に当たり前を見つめていきたいと思っている。
僕にとって真の「正義」とは、出会い、傷を負い、傷つけ、学び、自分の中に生まれた「正義」を皆と共有し、皆で大きくし、それを守り抜いていくものだと思う。