実は国際プロレス入りの可能性もあった 藤原組長の「自分の物差し」を信じる生き方

レジェンドプロレスラー、藤原喜明組長に“今”と“あの時”を迫ったインタビュー連載「レジェンド直撃」シリーズ第1弾も最終回。国際プロレス入りを勧められたが、自分の意志で新日本プロレスを選択。アントニオ猪木と出会ったことで、72歳の今も現役レスラーとして活躍し、趣味の達人ライフを楽しんでいる。そこには子供のころからの「自分の物差し」を信じる組長の信念があった。

故・ロビンソンさんとお酒を楽しむ藤原喜明組長【写真:柴田惣一】
故・ロビンソンさんとお酒を楽しむ藤原喜明組長【写真:柴田惣一】

レジェンド戦士を直撃、藤原喜明組長【連載vol.4】

 レジェンドプロレスラー、藤原喜明組長に“今”と“あの時”を迫ったインタビュー連載「レジェンド直撃」シリーズ第1弾も最終回。国際プロレス入りを勧められたが、自分の意志で新日本プロレスを選択。アントニオ猪木と出会ったことで、72歳の今も現役レスラーとして活躍し、趣味の達人ライフを楽しんでいる。そこには子供のころからの「自分の物差し」を信じる組長の信念があった。(取材・構成=柴田惣一)

 ◇ ◇ ◇

――サラリーマン人生も、持ち前の行動力で楽しんでいたんですね。

「それが、ストレスでげっそり痩せちまったりして。色々とあって、点々としながら横浜にたどりついた。金子(武雄)さんのトレーニングジム(横浜スカイジム)に通うようになったんだけど、そこで『お前、プロレスラーにならないか?』と声をかけられた。金子さんは国際プロレスに何人か送り込んでいて、俺も国際に行かされそうになった。吉原(功)代表や先輩で国際に行った米村(天心)さんと一緒に飲んだりしていたんだ。『お前、どこにする? 全日本プロレス、新日本プロレス、国際もいいぞ』なんてな」

――組長の心も揺らいだ?

「金子さんは国際に入れたかったんだな。でも、俺は当時の専門誌プロレス&ボクシングに載っていた選手名鑑をチェックしたんだ。3団体の中で、新日本が選手の数が一番、少なかったんだよ。そこでチャンスがあるんじゃないかと、猪木さんのところ、新日本にしたんだ」

――そうだったんですか? ことによっては国際に入門していたかも、ですね。

「そうなんだよ。国際だったら? 全日本だったら? 人生、変わっていたかも。新日本にしたから、今でもこうしてやっていられると思うよ。でも、本当のところはわからない。ラッキーだったのか、失敗だったのか? 色々と考えちまうのが、人生だよな」

――いえいえ、50年、72歳の今でもプロレスラーとして活躍し、多彩な趣味の達人として人生を楽しんでいるんだから、成功でしょう。俳優としてもVシネマなどで活動していますよね。

「新日本だったから、色んなことをやれたんだよな。そうそう、この前、これまで出演したドラマの台本をチェックしたんだ。350冊あった。1冊に3本分の台本がはいっていることもあるから、千本は出ているかも。セリフもあるからな。セリフがなければ、役者とは言わない。長いセリフだって覚えた。お医者さんの役もやったし、色んな役柄をやった。テレビの連続ドラマにレギュラー出演したな。サラリーマンだったら、映画やテレビ出演なんてないし、声優もやんなかったよな。みんなプロレスのおかげだよ」

――ですよね。

「だって俺、人前でしゃべれなかったんだよ。どもり(吃音)だった。それでも、人は集めていたけど。人前に出ることは大事なんだ。どもりを治そうと、浪曲も勉強したよ。当時はプレーヤーでソノシートだよ。広沢虎造さんの名調子をまねしたもんだ。実は35歳のころ、上野の本牧亭で大トリ張ったこともあるんだ。お客さんがあふれちゃって、大変だった。廊下に人が座っちゃって。今なら、ありえない光景だよな」

――浪曲もプロなんですね 。

「この間、高校の同級会があった。俺が中心になって、学校祭とか出し物やった話で盛り上がった。バイキングの山車を作ったもともある。家は農家だったから、帰ると馬の世話とかさせられる。それがイヤだったから、できるだけ学校に残っていた。授業が終わると、みんな俺のところに集まってくるんだ。どもりのくせに、しゃべるんだ。人生はこうじゃないか、ああじゃないか、って」

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