田中ケロ・リングアナ、コロナから奇跡の復活 一時は“究極の選択”迫られた【連載vol.84】
新日本プロレス「旗揚げ記念日」(1日、東京・日本武道館)大会の試合前「50周年記念セレモニー」で、並み居るレジェンドレスラーに負けない拍手を集めた田中ケロ・リングアナウンサー。1980年代から2000年代半ばまで、新日本のリング上で「時は来た!」などの口上や、選手のガウンに負けない華麗なコスチュームなどで、それまでのリングアナのイメージを一新させ、人気を集めた。
毎週金曜日午後8時更新「柴田惣一のプロレスワンダーランド」
新日本プロレス「旗揚げ記念日」(1日、東京・日本武道館)大会の試合前「50周年記念セレモニー」で、並み居るレジェンドレスラーに負けない拍手を集めた田中ケロ・リングアナウンサー。1980年代から2000年代半ばまで、新日本のリング上で「時は来た!」などの口上や、選手のガウンに負けない華麗なコスチュームなどで、それまでのリングアナのイメージを一新させ、人気を集めた。
昔は「リング危険手当」があり、月額5千円だったという。「タイガー・ジェット・シンには何度も襲われ、ひどい目に合った。リング危険手当は、シンがいてもいなくても同額。巡業は楽しかったけど、シンがいなかったらもっと楽しいのに、なんて思っていた。コールの途中で襲われるのが嫌だった。せめてコールし終わってからにしてよ、と。本当にシンは怖かった。でも今となっては懐かしいですね」と、ほろ苦い思い出を振り返る。
ノドだけでなくペンを持っても才能を発揮。軽妙な文章でレスラーたちの素顔を紹介する「旅日記」はベストセラーとなった。06年に新日本を退社後も、さまざまな団体、イベントでコールしMCとして登場。プロデューサーとしても活躍してきた。
この日も口上、コールでファンはもちろんレスラー、関係者を「さすが」とうならせたが、本人の自己採点は「全くダメ。50点いっていない。途中で呼吸が切れてしまった」と厳しかった。
「肺の動きが完璧じゃない」とうつむいたが、リハビリ病院から2月25日に退院したばかりなのだから無理もない。昨年7月末に新型コロナウイルス陽性となり8月に自宅療養中に倒れ、意識不明のまま救急搬送された。
人工呼吸器につながれたが、リングアナの命であるノドへのチューブ挿管はお嬢さんが拒否。懸命の治療が続いていたが、意識は戻らず、それどころか、血圧が急降下し「このままでは心臓が止まる」という緊急事態にまで陥った。「延命治療しますか? それとも?」と医師から究極の選択を迫られたという。
「延命してください」と奇跡を祈ったお嬢さんの願いが届いたのか、その時、田中アナが目を開けた。意識も戻った。その後は少しずつ回復し、リハビリも開始。半年以上の入院生活にピリオドを打ったばかりだ。
この間に体重は15キロも減った。体力も筋力もすっかり落ちてしまった。1日に13種類の薬を飲む毎日だが、幸いなことに食事制限はなし。何でも食べられる。今は体力を取り戻すために、とにかく歩いている。隣の駅まで歩いて往復。階段の上り下りにも積極的に取り組んでいるが「人の流れに乗れないので、皆さんに迷惑をかけている」と苦笑い。
脳の検査では異常は一切ないものの、体の左側がむくみ、左手にわずかだがマヒが残っている。「筋肉がこわばっているのかも。筋力を戻せば大丈夫かな」と前向きそのもので、明るくリハビリ生活を明かしてくれた。
3・1決戦でもメインイベントでリングアナを務めた。「懐かしいコールが多かった。100%のコールができなくて悔しい」と振り返ったが、目標がある。
「猪木さんを新日本のリングに招き入れるのは僕の仕事。猪木さんは大変な病気と懸命に闘っている。僕は死にかけたけど、こうして戻ってこられた。猪木さんも今日はいらっしゃらなかったけど、いつかは新日本に戻ってこられる。その時、ぜひともコールしたい」と力がこもった。人間、先の目標や夢があれば、それを励みに頑張れる。
新日本の50周年を支えた一人である田中ケロ・リングアナ。完全復活の日が待ち遠しい。